なんで海外文学を読んでるの?

この記事は海外文学・ガイブン Advent Calendar 2020、12/8の記事です。
昔話から始めましょう、わたしがまだ海外文学のことを何も知らない頃、勤めていた編集プロダクションの社長からいろいろなSFを教わって夢中になって、社長に奢ってもらった居酒屋でのこと。

「社長に教わったヴォネガット『スローターハウス5』おもしろいですね!」
「ヴォネガットは何を読んでも何かを得られる気がするね」
隣の中年男性が話に入ってくる。
「失礼ですが、SFお好きなんですか」
「わたしはまだ少ししか読んでませんが、社長が詳しいんですよ」
「へー、ぼくもね、若い頃はバラードとかディックとか一通り読みましたよ」
「今は何を読まれてるんですか?」
「今は……、今はね、あんまり本を読まなくなっちゃった。現実の方が、おもしろくなっちゃってね」

現実の方がおもしろいなんてことがあるのかな?
この会話はずっとわたしにつきまとってきた。おもしろい本が世の中には星の数ほどあるのに、読書をやめてしまうなんてできるのかな? いつか自分にもそんな日が来るのだろうか、来るとしたらどんな現実がやってきたら読書をやめてしまうんだろう。いろいろ考えたようで、どこまでも他人事だった。

今年はコロナのせいで外出・会合を自粛したせいで、ずっと開催してきた読書会を開けなくなった。すると読書量も減退している。もしかしたらこれが本を読まなくなっちゃう日なのかもしれないと恐くなった。自分は何のために海外文学を読んできたんだろう。おもしろいから読む、ただそれだけのつもりだったのに、人と本の話ができなくなると一気に読書のモチベーションが落ちた。
もしかしてわたしは誰かとのコミュニケーションツールとして海外文学を読んできたんだろうか。それだけのため? なんだか海外文学を読む動機が分からなくなってきたのです。

そんな時、手元から離れなかったのは去年から読んでいるプルースト『失われた時を求めて』。読んでいてすごく楽しいわけではない。マジック・リアリズムばかり読んできたわたしはフランス文学には疎くて、我が家にはプルースト以外1冊もない。それでもプルーストはちまちまと読み続けていられる。浮世離れした貴族の社会でひっそりと人々を観察し、貴族たちが一喜一憂するのを語り手とともにじっと見守る。見えないはずの人々の心まで描いて、一つの大きな世界がわたしの中にできあがっていく。
『失われた時を求めて』が書かれた当時もスペイン風邪のパンデミックで多くの人が亡くなったはずだけど、今のような悲壮感はない。ただ、繊細で憂鬱でどこにいても満足できない人々の姿は今と同じ。発話されることのない書かれなければ素通りされる言葉がここでは雄弁に物語る。行ったことのないフランス、全く他人事のはずの貴族社会とわたしは地続きだと感じられるのです。

もう一つプルーストを読んでいる理由は、先達の多さ。解説書の多さはかなりのもの。中には通読した上で読むべき本もあって、古本屋で安かったからと買った某書には祖母が実は……というすごいネタバレがあって「ああー、読まなければもっと純粋に読めたのに!」という経験もしました。
でも、1巻をしっかり解説してくださる岩波文庫版の翻訳者吉川一義『プルーストの世界を読む』や、生活の中で他の本とともに『失われた時を求めて』を読んでいく柿内正午『プルーストのある生活』などは、読むモチベーションが失われた時に最適です。

他の海外文学にもこんな本が増えて、自分の読み方との違いを感じながら読めたらいいなと思うんですよね。書評だとちょっと足りないし、ネタバレありで全力で語り合えるような解説書がもっと増えたらいいなと思うのです。

で、最初の疑問「なんで海外文学を読んでるの?」については「楽しいから」以外の答えが見つからない。知らない世界を本を通じて知るのが楽しいからです。で、別に海外文学一本に絞る必要もなくて、Civilizationのようなシミュレーションゲームが好きな人は、ロケットの父ロバート・ゴダードが出てくるので、ロケットの文学といえばピンチョン『V.』とか『重力の虹』だよね、みたいに文学と関係がないと思い込んでいる関心と海外文学のテーマがうまく結びついたら読書のモチベーションにつながりそうですね!


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