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デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』

しばらくnoteで読書感想などを書くことにしました。

久しぶりに海外文学の新刊を買った。最近はコケや菌類、マンガなどが多くて、海外文学の新刊だからといって無条件に買うことはなくなっていた。一時期、SFや海外文学を買って読むことで、自分がなりたい自分になれると信じていた。図書館すらままならない田舎で生まれて、一人暮らしして読書に関する友人がたくさんできたこと、海外文学の読書会を開くことができるようになったことは、子どもの頃の自分から見たらすごいかもしれない。

でも、すごい当たり前のことなんだけど、海外文学を読んでるだけで生きていけるわけではない。そんな仕事があったらいいよね。

それはともかく、海外文学が世界の全てではないことに気づいてしまい、最近はかわいいアニメを見たりあつ森で青いバラを目指したりしているわけで、海外文学の優先度はかなり下落している。それでもこの本を発売日から時をおかずに手に取ったのは、版元の国書刊行会が、〈アメリカ実験小説の最高到達点〉とうたっているからだ。実験小説、甘美な響き。何の実験をしているのか、今まで知らない世界を見せてくれるのだろうかと期待してしまう。

『ウィトゲンシュタインの愛人』の語り手は今のところイタリアのとある海岸で車を海岸に転がしてしまった。彼女の言い分をそのまま信じるなら、世界から人間が自分以外全て消えてしまい、画家だった自分は各地の美術館で寝泊まりし、暖を取るために名画をたきつけにして各地を放浪してきたという。そしてものすごい記憶力で画家や哲学者たちの関連性を妄想する。名前は決してまちがわないけれども、妄想にはだいぶ尾ひれが付いていて、レンブラントとスピノザが会話したりする。同じ時代、同じオランダに住んでいたのだから挨拶くらいするだろうというのだ。そういう妄想が3行くらいで終わり、また別の妄想に続いていく。これをずっと読まされる。

読まされるとは穏当ではない表現かもしれない。やめたらいいのだ、つまらないと思ったのなら。でもこれは実験小説。何の実験なのか、意図を突き止めるところまでが最低限の読書だと思う。端的に言うと、ラストにわずかな希望がある。あるが、ここまで約300ページを数限りない可能性だけ読んできた身には、ちと小さすぎる灯りだ。

語り手自身のことと、歴史的な人物のこと、大きく分けるとその二つが語られる。そこに脈絡はない。脈絡のなさが実験なのだろうか?

像はその描写対象を外から描写する(描写の視点にあたるのが描写形式である)。だからこそ、像は描写対象を正しく描写したり誤って描写したりすることになる。
しかし、像はその描写形式の外に立つことはできない。

この本のためにウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を買ってきた。残念ながら『ウィトゲンシュタインの愛人』を解き明かすことはわたしにはできなかったけれども、終生買うことはあるまいと思っていた『論理哲学論考』が意外におもしろくて、なるほどみんな引用したがるわけだというのが分かったことだけでも『ウィトゲンシュタインの愛人』を読む価値があったということかもしれない。


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