正義という狂気

先日31年ぶりの商業捕鯨が再開されましたが、

その一連の報道の映像の中に、衝撃的な、光景が有り、ぞっとした。

 反捕鯨団体「シーシェパード」による妨害活動が、過激で、異様だった。常軌を逸した犯罪スレスレの妨害行為で、民間の小さな木造の漁船に彼らの駆逐艦のような大型船舶で体当たりして来る等の海賊まがいの妨害を執拗に、繰返した上、「日本の無慈悲な狂気を許さない、」との声明まで出したらしい。もし、その危険な妨害行為で、死傷者が出たら、どっちが無慈悲な狂気だよ?死者は出てなくても、船舶の体当たりで、他の魚が何匹か、潰されているかも知れないよね。「反捕鯨団体」と名乗るくらいだから、鯨以外の命はどうでも良いの?あるいは、単に、何かに、反対し、暴れたいだけなの?

これは、非常に危険だと思う。危険と言っても、単に、海上での船舶の衝突は「人命にかかわる」という単純な意味でなく、「反捕鯨」等と、自分の主義・主張等に熱くなり過ぎて、冷静さを失っている状況は、時に悲劇を呼ぶものだ。
こうした、「反〇〇」を掲げる正義は時に暴走し、実に恐ろしい。戦前のナチスも、日本軍部も、自らの狂気に、うすうす気付きながら、止まれなかった。

民間の小さな木造の漁船に、彼らの屈強な船が執拗に攻撃する映像を、報道番組で見たが、その卑劣な振る舞いは、無法者のゴロツキか「ならず者」の様だったが、
それを行っている、その船の乗組員は、自分達の行為が「正義」である事に、一縷の疑いも無いのだろう。

昨年の相模原の障害者施設で入居者19人が、刺殺された事件の犯人も「社会の為」を主張していた。まったく、正義ほど怖いものはないです。

ナチスがアウシュビッツでユダヤ人へ行った虐待も、

そのナチスが真面目な人なら、真面目な程、過酷なものになっただろう「民族の為、総統の為」の一心で、必死の虐待を行っただろう。真面目な人が一生懸命行う虐待は、さぞ過酷なものだっただろう。

シーシェパードの方々も「鯨が、可哀そう・鯨を守りたい」という純真な想いから、そうした活動をしているのだろうが、その想いが、純粋な程、怖い。やっているのは実質的には「漁民虐待」だ。

自らの正しさを信じて疑わない者ほど凶悪な者はいない。
悪の起源は、正義かもしれない。

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