時間という疾患


風邪をひいたようで、病院に行き、「最近、風邪っぽくて、だるい」と、相談すると、「風邪っぽく、だるいなら、風邪でしょう」と、早々に帰されてしまったので、知人に、相談すると、「風邪なら、死にはしない」等と、軽く流されてしまった。

本当に「死にはしない」のか、自分で調べてみると、
風邪とは、「軽度の上気道のウイルス性疾患の総称」だそうで、この「軽度の」と言うのは「自然に治る」とか「死には至らない」等の、意味らしいので、
確かに「死にはしない」ようだが、これは、おかしいぞ。本当に「死に至らない」が、風邪の定義なら、意味が逆流しないだろうか?

例えば、僕が今、ひいている風邪が、悪化して、死んでしまったら、風邪は「死に至る病ではない」から、僕が死ぬ事で、僕は「風邪ではなかった」事になり、風邪だった事実さえ消えてしまい、結果、「風邪で死ぬ筈はない」と、認識される。
何故こんなややこしい事になるの?

ぞもそも、風邪とは、咳や熱や鼻水が出たり、体温が上がり、だるい等の症状の「総称」だから、風邪というウイルスが、実在する訳では無いらしいので、風邪とは、「実体」ではなく「認識(概念)」に過ぎないようだ、そう考えると「風邪」は、「時間」に似ている。

時間とは、植物が実り、動物が育ち、老い、天体が動く事などの現象(つまり、変化)の「総称」にすぎないと、言えるだろう、
そう考えれば、時間とは、実体ではなく、概念とか「認識」に過ぎないのかも知れない。

僕が幼い頃「口裂け女」という都市伝説が有った。
当時、猟奇的な事件が多発し、戦後と呼ばれた時代から「バブル景気の時代」への過渡期への不安や怪しい時代の到来の予感や危惧をみんなが、なんとなく感じ、次代への不安や、不信感を擬人化したものだったように、今から振り返れば見える。怪しい予兆や、不安等という「見えない・有りもしないモノ」に「口裂け女」等と名前を付けてしまった事で、実際にそんな者がいるような雰囲気が生まれてしまった。

例えば、山という言葉が生まれた時、誰かが、山を指さし「山!」と言って「あれを、これから、山って呼ぼうぜ」と,表明しただろう?と、仮定すれば、

じゃあ、時間は、何を指した? 時間に、時間という名前が付いた時が、形の無いモノ(指で指し示せないもの)にも名前を付けるという習慣の始まりかも知れない。やがて、その習慣から、愛や平和が、誕生し、愛から「情や絆」が、価値から貨幣・経済が派生し、今、僕らの周りには「見えないモノで溢れているから、どこかで、ふいに、口裂け女に出会っても、不思議でない。

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