閉ざされた部屋(世界の発生②)


例えば、今、目の前に、過去10年間1度も開けられていない「鍵で閉ざされた部屋」が有ったとして、今、10年ぶりに、その部屋が、開かれ、そこに、壁一面が、赤く染められた「赤い部屋」が、出現しても、その部屋が「閉ざされていた10年間、ずっと、「赤い部屋」のままだったかどうか」は、分からないはずだ、その可能性が高いだけで、ずっと無人のままだったから、

「そうだった事」を誰も証明する事も確認する事も出来ないから、ドアが開けられる直前までの10年間ずっと「黒い部屋」だったのが、ドアが開いた瞬間赤くなったのかも知れない。

そんな事は有り得ないから、その部屋が当然、ずっと赤い部屋だったと、判断するのは、

「科学的に考えた」か、「常識的に判断した」だけである。この場合の「常識」とは、ほとんど「科学」と同義であるだろう、なら、我々が、普段「世界」と呼んでいる物は、科学を前提として成り立っているのだろうか?では、科学が、世界を生むのか、世界が科学を産んだのか?という、「卵が先か、ニワトリか?」って「不毛の堂々巡り」になってしまう。

前回の記事でも、「世界」が「知覚」を生んだのか「知覚」が「世界」を生んだのかという矛盾に突き当たってしまったが、

「世界の有り方」を探ろうとすると何故かこの種の「矛盾」や「堂々巡り」に陥り、世界は姿を「闇の中」に消してしまう。もともと世界はそういうものなのだろう。

原始の海で最初の生命である「シアノバクテリア」が、誕生した時、世界は、まだ「闇の中」だったはずだ、たとえ、世界が光に溢れていたとしても、それを、知覚できる生物がまだ発生していないからだ。

やがて進化が起こり、視覚器官を獲得した生物が、視神経を発達させるに従って叙々に世界は、発生したのだろうか?

知覚される前の世界は、「在った」のだろうか?誰もそれを認識できないのに?

「知覚」と「存在」は、同時に生まれたのだろうか?

それ以前の何物にも知覚されていない状態の世界は、「存在」した?

存在って概念さえ存在してないのに?

同様に「有」と「無」はどうだろう?「有」という認識が無ければ、「無」という概念は、誰も思いつかなかっただろう。そもそも「有」も知覚されて初めて成立する概念だろう。「知覚」が無ければ「無」すら無い?

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