言葉と僕

人には、それぞれ適性というものが有り、自分の「適性」や「行為対象との相性」には、充分に留意して、行動を起こさないと、「とんだ時間の無駄」になる。

以前、僕は「英会話」に挑戦してみた事が有る。英会話を学ぶ上で最初に直面した困難は、「一人称単数」つまり、自分自身を、どう表現するか?という問題だった。

英語では、I「アイ」と呼ぶだけだが、この表現に対応する日本語が、「俺・私・僕」等と、多すぎるのには、どう対処しよう?

この件で、日本人である僕が、特に困ることは無い。

「I」という一つの単語に複数の選択肢が有るだけなので、特に困らないが、逆に日本語を習う外国の方には、不便な筈だ。

僕自身は一向に困らないが、僕は、人一倍親切な男なので、つい、心配になってしまう。

「僕は自分を、僕と呼ぶだけなので、構わないが、自分の事を、ワシとか、オラ等と言う人は、さぞ困るのでは?」と僕は、心配だ。さて、今の文章は、翻訳可能だろうか?

「翻訳可能だ」という事は、不思議な事かも知れない。

「言葉」は、本来、個人に属すものだから、意味もニュアンスも用法も個人差が有る。

例えば、僕が、これから、ある女性に「告白」をするとしよう。

僕は情熱的な男なので、「愛」という言葉を何度も繰返し、使いながら、愛を伝えるが、

僕は、情熱的であると同時に、軟派で、女好きな軟弱ヤローでも有り、

そんな口説き文句を毎日言っているから、僕の使っている「愛」という言葉は非常に薄っぺらで、軽い言葉かも知れないが、

一方の相手の女性は、お嬢様育ちの子で、「愛」なんて言葉口に出したことさえ無いような箱入り娘だった場合、僕と彼女の「愛」という言葉には、随分ニュアンスが、違っているが、それでも二人の間で会話が成立する事は不思議だ。

あるいは、また、僕は川の上流の方で育ったので、「石」という言葉に抱くイメージはわりと大粒の、岩に近い石を想起するが、川の下流の連中は、川上から転がってくる間にぶつかり合って砕け、削られて小粒になった石を想起するだろうが、一つの川の上流と下流の間でさえ、「言葉」はこうも違ってしまうのだから、

言葉を巧みに使い、完璧な意思の伝達を試みようとしても無駄なのだろう。

言葉なんて、ある程度細かい事は「大目に見て」多少いい加減で、「なあなあ」で、発しないと伝達どころか、成立すらしないのかも知れない。

単に「英会話」を習った事が有るというだけの話だったのに、

いつも、僕の話は、こうして、右へ左へと話題が反れ、脱線し、

目的に一向に近付かないから、「英会話」に限らず「言語全般」がダメなのだろう。

そんな訳で「英会話」は、挫折しました。

どうやら僕は、語学に適性が無かったようです。そんな奴が書いた雑文を、ここまで読んでしまった方、お気の毒です。 

ほら、「時間の無駄」だったでしょ?

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