老婆の消失
前回「見える人」と「見えない」のオカルトな話を書いたが、
考えて見れば、僕だって「見える人」である可能性は十分あるのだ。
自覚してないだけで、毎朝、アパートの駐車場で見かける、あのお婆さんが、ひょっとしたら、他の人に見えておらず、僕にしか見えていないかも知れないのだ。
周りの人や、お婆さん本人に、聞いてみる勇気もない「あの人(あなた)本当に存在してます?」やっぱり、聞けない。
このように、見えている物が、本当に存在していると、確認する事は、容易ではない。
同じように、見えない物の存在は、「見えない」から、存在しないとは限らない「見えるか、どうか?」は、実際の存在と、あまり関係無いようだ。
じゃあ、前回の記事に書いた、原始の海で「進化を始める前の、神経を持たない初期の生物」は、「見えない」から、「存在しない?」それとも「見えない」けど「存在する?」
では前回の記事 で食べてしまった「タイムマシーン」をまた、使って、僕自身がその古い海に潜って見よう。
潜って、目を閉じてみよう、そうすれば、僕は、周りの原始生物と条件は一緒だ。(つまり、知覚する者も、される者も、存在しなくなる)
それでも、彼らは、「僕に見えなくなった」だけなので、存在しなくなった訳ではない。
しかし、それは、僕がその事を「知っている」からで、目に見えなくなっても、存在を消してしまった訳ではないと、僕が知っていて、そう理解しているから、そう勝手に判断しているだけだが、彼らは、神経も脳も待たないから、そんなふうに「思ったり」「判断したり」しない。
そう僕は、彼らより、少しだけ「頭が良い」から、「見える」とか、「存在」とか、小賢しい事を言ったり、知覚しているだけだが、
その事は直接「存在の有無」とは関係無いだろう。
きっと「存在」という現象は、「知覚」とセットで、成立していて、どちらか、片方だけでは、成立しない。というのが、
三度の検証実験で、僕が得た結論です
でも、オカルトマニアの僕としては、見えない物は、存在すると思いたい。
結局、「見えるかどうか?」は、「存在」の証明にはならないのだろう。
一体僕らは、どんな世界の、どこに存在しているのだろう。
きっと「存在」という概念が、幻想なのだろう。
あれ?じゃあ、今朝の、駐車場の老婆は、本当にいたの?それとも・・・
と最後も、オカルトチックに締めて見ました。
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