命の更新

先月、誕生月だったので、市の健康保険課から、新しい保険証が、届いた。保険証の裏面に臓器提供の意志の有無と、その詳細を記入する欄が有り、
脳死した際に、臓器を提供するか、あるいは、心臓が停止した、死後に限り、臓器を提供するか?を選択する記入が有り、僕は、そのどちらも、すぐには選べなかった。「あなたにとって、生とは、命とは、何か?」と、問われているようで、悩んでしまった。

たかが、新しい保険証が届いただけなのに、どえらい哲学的命題を問われてしまったが、その問いは、僕には、あまり関係ない気がする。だって僕は、その死の当事者だから、関係しようがない。僕の葬式に、僕が参列できないのと同じ理屈で「僕の死」という現象は、それを看とる人や、残された遺族にとってだけリアルな現実で、すでに不在の僕は、その死とは、無関係だが、臓器提供の問いには真剣に向き合いたいので、慎重に保険証の裏面を見ながら考えた。

脳が動いていても、心臓が止まれば、脳に血液が届かず、やがて脳も止まる。
逆に、脳が死んでも、心臓が動いていれば、他の臓器に血液が届き、他の臓器は死なない事を考えれば、どちらをもって死とするか?は、なかなかの難題だ。
もし、仮に僕の心臓・脳いずれかの停止により、臓器移植を行う際、その臓器は、移植の為、摘出された時点で、もう僕の一部ではないし、移植が、成功すりゃ、他者の一部だ。僕は、自分が、「自分の死」と、こんなに縁遠い存在だなんて、思ってもいなかった。それだけ「死とは、何か?」と考えてこなかったという事だろう。そんなヤツの元に届いた健康保険証なんて矛盾に満ちた奇妙な証書に、えらい難題問われてしまった。

脳が死んでも、心臓は、他の臓器へ血液を送り続けるように、
僕が死んでも、誰かの中で、僕の臓器が機能し続けるなら、「死んでしまった」感が、薄い気がする。何かに、機能し、役立つ事が生きるという事だろうと、脳死をもって臓器提供するとの条項を選択し、漸く記入を終えました。
保険証の更新って、毎年こんなに大変だった?

移植手術という医療の進歩で、自分の生も、死も、他者と共有できるようになったのだろうか?なら、生の定義も命の形態も僕の知るそれらと、大分違っている。

死を迎えても、他者の一部として、命は更新されると考えれば、悪い話じゃない。
今回の厄介な更新で僕もそちらの様式への切り替えが完了したのなら、一安心だ。

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