世界のカタチ


正月の、暇つぶしに「駅伝」を見た、アフリカの留学生ランナーの活躍が目についた。彼ら、「アフリカ人」は、身体能力だけでなく、視力も我々より優れていると聞く。

我々より遠くまで見えているなら、我々には見えない遠くまで、彼らは「世界」と認識する筈だ。
この「目に見える」や、「どう見えるか?」は、案外、重要だ。
我々は、日頃、目に見えない物は信じないが、見えるものは疑わない、というように、「視覚情報」に圧倒的な信頼を置いているから、見えなければ「実感が沸かない」

例えば、今、僕の頭上には、空が広がっていて、そこに、雲が浮いている。
また、その遥か上方は「宇宙」になっている事は、知識としては、知っているが、「見えない宇宙」と、「見えている雲」とでは、「存在してる」感が、圧倒的に違う気がする。何故なら宇宙は、見えていないからだ

我々は、目に映る空間に「世界」と、名付け、そこに自分たちは、住んでいるつもりでいるが、
アフリカの優れた視野も持つ方々と、先進国の「もやしっ子」の我々の目に映る景色はだいぶ違うのに、その両者とも「世界」なのは不思議だ。
彼らの視力が優れているのは、環境や、生活に「適応」した結果だろう。
つまり広大な大地の、どこに「獰猛な補食獣」が居るか、発見する必要が有り、視力が発達したのだろう。我々「生物」は、そのような「必要」に応じて進化・適応してきたのだから、
そんな知覚の発達・進化のたびに、世界は「見え方」(姿)を変えてきた筈だ。

人という同じ種族同士でさえ、世界は、そうして、違って見えているのに、他の種はどうだろう?

犬や、猫は、よく、何も無い空間を、突然目を見開き、凝視し出したりするけど、そこは、本当に「何も無い?」僕は、犬や、猫と話せないので、確認しようがない。
本当に、世界は、我々に見えている通りの姿をしてる?
日本語を解す犬や猫に聞けば「全然違うよ」と笑われないだろうか?

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