新しい時計を買った

先週、二度寝して、大遅刻をしてしまったので、週末を利用して、新しい時計を買いに行った、秒針がカチコチと、うるさく音を立てず、静かに時を刻み、かつ、アラームはしっかり鳴るタイプの時計が欲しいと、店員さんに伝え、そんなタイプの商品を紹介して貰い、購入した。
早速、使ってみると、実に快適な使い心地だ。やはり時計は音がしない方が良い。 

時間は本来、無音だからね。昔の人は、太陽や月の動きで時間を読んでいた訳だから、彼らは、時間を進めているものの正体は、太陽や月といった天体だと捉えていたかも知れない。太陽も月も音を立てて昇ったり、動いたりしない。
やはり、時間は音を出して進むのは、不自然だ。カチカチと時計の音が聞こえていると、時間に追われているようで、ストレスを感じる。

生き物は本来、そんな、ややこしい時間の中を、生きていない。

何億年もかけた進化の過程で、いつ頃目覚め、いつ、どんな行動をすれば、

 補食に、天敵を避けるのに有利か、体内時計に刻まれている。
冬眠する生き物は、カレンダーを見なくても、秋に、冬ごもりの支度を始める。時間は、本来そんな風に体内を自然に巡っている。

そんな自然に近い時間の中で就寝すれば、熟睡出来て「寝足りない」と感じ、二度寝する事もないだろう。と思い、カチカチと不自然な音のしない時計を買ったのだが、その新しい時計がアラーム付きなのは、定時に起き、定時に出勤する為だ。僕らが、普段「時間」と呼んでいるのは、そんな社会のルールにすぎないのでは、ないだろうか?

自然の中の「時間」とは、鮭が秋に故郷の川へ遡上し、冬に、熊が冬眠する等の現象の事で、それは、ルールじゃないように、時間とは何者も束縛したりしない。
前述のように時間は社会と密接なのは、時間は、社会に付随する属性として成立した概念だからだろう。

たとえば、狩猟民族が狩りの効率化の為「夜の内に狩りの準備をし、日が昇る前に出発し、日の高い内に獲物を狩ろう」等と、狩りの戦略を精緻にする為に編み出された概念かもしれない。
当然そのニューカルチャーにうまく馴染めない者もいただろう。

つい、遅れがちで「遅いぞ!早くしろ!」と叱られてばかりの彼は、僕の遠い御先祖様か、僕の前々前世かもしれない。

ところで、ラグビーW杯盛り上がってますね。スポーツに時間制限が有るのは、何故だろう。主に西洋式のモノがそうだよね。一方国産の相撲や、剣道・柔道は時間制限ないのは、武士の国だから息の根を止めるまで戦い、白黒を付けよ!という侍文化の名残か、あるいは又、農耕民族は春に田植えした稲が夏に育ち、秋に収穫すると、農耕の時間は、じっくりと流れる為かもしれない。一方、狩猟民族の獲物は早朝には○○の河原で○○が釣れる、日中は○○の狩場でウサギが狙える。と、分刻みで獲物が変わり、また、その獲物も素早い。そんな食文化の民族のスポーツが時間制限付きで当然かもしれない。 一方、農耕の民の末裔同志で、遅刻の咎を非難したり、されたり、するのは、ナンセンスだ!時間を守れ!遅れるな!ですと?そいつは、出来ねぇ相談だぜ!おととい来やがれ!おいら、農耕民の末裔じゃ!

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