時間というフィクション

単純軽作業のパートの仕事を始めた。日によって作業内容が違い、
単純作業の日は、時間が長く感じ、複雑で、緻密な作業だと時間は早く感じる。


時間を忘れて、何かに没頭していると、時間はあっという間に過ぎてしまったり、楽しい時間は早く終わり、嫌な事は長く感じたりするのは、経験的に誰でも知っているが、考えてみると、不思議な現象だ

 そんな風に、状況次第で時間の体感速度は違っているのだから、いつ誰がどんな状況で、感じている時間の流れが、本当の時間の速度なのだろう?

そんな「時間の不思議」について、調べようと、図書館や書店へ行くと、物理学のコーナーにしか時間に関する書籍は見当たらない事も、 不思議だ。

どう見ても「物」には見えないし、そもそも見えない。
見ようと思えば、物が劣化したり、生き物が老いたりする様子で確認するしかない。なら、そのような「現象」を時間と呼ぶのだろうか?

「言葉」が、生まれたばかりの頃、「名前」とは、「物」に付けるものだった筈だが、
いつの時代も困った変り者は、居るもので、そんな剽軽者が、物ではなく「現象」に名前を付けてしまった「おふざけ」を面白がって、皆で乗っかったのが、発端で、始まった文化習慣をいつの間にか実存のように思い込んだ「勘違い」が生んだ幻想ではないだろうか?

きっとその頃の古代人が、当初想定していた「時間」と、現代物理学の扱う「時間」は、かなりの乖離がある筈だから、
前述の剽軽で軽率な「言い出しっぺ」も、現代物理を知れば、「まさか、こんなに大事になるとは・・」と、驚き呆れるかも知れない。
時間なんて誰も見た事も触れた事も無いものが「在る」なんて、全人類が全人類史をかけて築いた壮大なフィクションかも知れない。


普段我々が「時間」を感じるのは、季節の移り変わり等「変化」の前後を比較した結果であり、それを知覚するのは、脳の作用だから、時間という現象は脳の中でだけ起きているので、やはり虚構かも知れない。

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