実存デモクラシー
昨年
梶田教授のニュートリノ研究がノーベル物理学賞を受賞されたが、
僕のような素人にとって、
宇宙の謎は、突き詰めれば、「有」と「無」の問題になると思う
「無」は、有るのか?という「究極の禅問答」だ。
僕が、今朝目を覚ました時、最初に目にしたのは、頭上の天井だったが、それは、「天井が存在する事」を確実に保障する訳では無い。別に台に乗って、触れて確認してみたわけではない。
今朝、僕に、起きた事は、天井という物質が僕の視神経を刺激し、視覚情報か、脳に入力されただけだから、
その時そこに確かに存在したのは、「天井という物質そのもの」ではなく、「天井が、見えた」という「視覚情報」だけである、「情報」と「実存」は、全く別のものなのに、
我々は、日頃、目に見えないものは、信じ無いが、見えるものは疑わない。
「見えるか、どうか」は、「存在」にとって、そんなに大事な事だろうか?
たとば、僕が、突然、神経の疾患で全知覚
情報か脳に届かなくなってしまったら、
それでも世界は、依然、存在しているのだろうか?
上記の疾患の為、僕には、それを確認する術は無いが、
それでも尚、存在するなら、その根拠は、僕にだけは、無い事になる。
疾患者が僕だけなら、「それまで通り世界を認識できる者」と「疾患によりそれができない僕」との多数決で世界の有り様は、民主的に決まるのだろうか?
ニュートリノは教授の研究以前長い間、質量が「無い」とされていたそうだが、
「無い」が研究成果や、受賞での注目の結果「有る」に変わってしまうのは、「存在」とは、結局、「認識」の問題なのだろうか?
「認知」されなくても、「存在」は有る?本当に?
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