近眼デモクラシー
幼い頃から近眼で、常に眼鏡をかけている、
その為か、周囲は僕を「眼鏡をかけた奴」と認識してるようで、
たまに、眼鏡をかけずにいると、
友人に「なんか、普段と雰囲気が違って、変なかんじ~」等と、言われるが、
実は、その時、僕にも、同じ現象が起きているのです。
その友人も「眼鏡をしてない僕」から見れば、普段と違って、目鼻立ちも、輪郭も、ぼんやりと滲んで見えているので、普段と様子が違って見えているから、
「変な感じ~」なのは、お互い様だ。
この現象は、街中のいたるところで、発生していて、
果物屋の軒先に並べられたリンゴも、八百屋のトマトも、
世の中で、一般的には、「赤い」とされているが、「眼鏡してない近眼の僕」の目には、「水を含ませ過ぎた絵の具のように滲んだ赤」にしか見えない。 それでも、一般的にリンゴも、トマトも、ポストも「赤色」であると認識されているのは、
近眼(でしかも裸眼)の人より、そうでない人の方が、多いから、という単純な数の論理によるものだから、
我々が現実と認識している事象は全て、「数こそ力」「力こそ正義」
という非常に民主主義的な数の論理の上に成立しているにすぎない。
話は変わりますが、かつて、ソ連の宇宙飛行士「ガガーリン」は、わざわざ宇宙まで行って「地球は青かった」などと、おかしな事を言ったらしいが、
彼がなぜそのような戯言を吐いたか、と言うと「地球が青く美しい水の惑星だから」では、無い、理由はもっと単純で、彼が、人間だったからである、我々「ヒト」の眼は可視光線しか見ることが出来ない、つまり、我々には、世界の半分も見えていない。他の生物は、もっとよく見えている。
たとえば、目の前に一輪の白い花があったとする、ところが、世界中のどこにも、「白い花」なんて存在しない、それは、あくまで「可視光線で見れは白く見える花」にすぎず、人の目には白くとも、
もっと高性能な目を持つモンシロチョウの目には、どぎついほど、ど派手な、「まだら模様」に見えていたりするのだ。~赤外線・紫外線で見れば、我々が見ている以上に世界はもっと複雑怪奇な色彩と紋様に包まれている。
犬や猫の目には、色は見えないので(彼らは色盲である)、真っ赤な薔薇は赤ければ赤いほど、黒く見えるはずだ。、
では、地球は何色だろう?ガガーリンの宇宙船に同乗した犬には、青い地球は、いつもと変わらない、モノクロの世界の一部にすぎない。
一体、「青い地球」と「黒い地球」どちらが、地球の本当の姿だろう?
ガガーリンの不用意な発言以前は地球には色なんて付いていなかったはずである。
たとえば、我々の先祖が、木の上で暮らしていた頃、「もし、この先、地球を外から眺めるほどの高度な知能と技術を獲得する生物が
猿の子孫なら青、犬のなら白黒・・・」という可能性だけでしか色彩は存在しなかった筈だ
つまり、ここでも、数の論理で、力ずくに、民主的に地球の色は青い事になっただけだ。
我々が「真実」とか「事実」などと呼んでいる物は本当に有るのだろうか?
科学は、真実を追究しているのだろうが、僕には、科学の進歩は、「世界は、科学ごときに解き明かせるほど単純ではない」事を証明し続けているだけのように見える。
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