灼熱の日差しから逃れて…

 これはある夏の話だ。
 燦々と輝く陽光は爽やかな夏という記号をとうに投げ捨てており、単なる都市を焼き尽くす灼熱として地表に降り注ぐばかりである。
 もう無理だ。
そう悟った小生は、一瞬の涼を求めるべく算段に入った。

 今日も気温は30度を優に超えてくる。ともなれば選択肢として第一に挙がる手段は、“場所を変えてみる。” それが最も容易にして適切な判断となるであろう。今どきの言葉が表すところの「コスパがよい」というものである。徐に小生は動き出した。

 平日の昼下がりともなれば、列車は空いている。
それもそうだ。この国では随分と長く国家の危機が喧伝されている。その縛りは法的な力であることもあれば、時には社会的な圧力と体裁を変えつつ、国民感情に長く訴えかけ続けられている。
反面、その見通しが効かない現状にその拘束力は弱まりが見え始め、多様化と自由の名のもとに陰謀論すら跋扈する緩やかな社会不安に形を変えていきつつあるのかもしれない。

 こんな社会の行く末など小生が心配する由もないが弱った社会にも夏の熱波は等しく襲いかかってくる。
 つまりは暑いのだ。
社会の不安と暑さに抑圧され、人々の姿は街中から消えていく。
それが、小生が乗ったガラ空きの電車という形で現れているのだろう。

 ビルの間をすり抜け、海辺を進み、トンネルを潜り、列車は走る。
程なく終着の地下駅に到着した。
都市化の進展とは、すなわち限られた地表の奪い合いと立体的な活用により結実する。そんな教科書通りの立地を体現する地下駅は、構造としての個性など主張する余地もなく、わずかに壁面など極めて限られたデザインでその所在を主張する。
無個性が故に都市の記号として地位を獲得した地下駅、しかしそこを終点とすることこそ大都会からの離脱を図る小生にとって最良の旅立ちの場所となるのだ。

 さぁ全ての準備は整った。

 小生は決して豊かな身分などではない。
ほんの僅かばかりの収入を工面し、日々食いつなぐだけの低所得貧民層だ。
不審なものどころか大した持ち物すらないが、治安の保持のためと大義を掲げ当局は小生の持ち物を検査する。
もちろん、何も持たざる小生の摘発など出来ようもない。

 さて、少々時間が出来た。
幸いにもこの場所には低所得旅行者のために温情で飲み物を供する施設があるそうだ。
日頃からいかに食いつなぐかということに労力を割かざるを得ない小生は、食べるもの・飲めるものにありつけるのであれば、決してその機会を逃すようなことは出来ない。
 資本主義社会に絡め取られ、ただ消費するだけの役割を与えられた搾取層に配られたプラスティック・カードは、表面に刻まれた16桁の番号によって市場に存在する債務を資本家から労働者に転嫁するツールであるが、このときばかりは幼気な労働者に僅かに喉を潤す水分を供与するための識別番号として機能する。
 受付でカードを提示し、無機質なセンサーのみが人間に消毒液を吹き付ける不気味な機械の洗礼をうけ、ようやくいっぱいの紅茶にたどり着いたのである。限られた時間で紅茶、青汁、トメィトジュースを飲み干すと、もうファイナルコールだ。
 ガラス張りの通路に出ると、やはり燦々と陽光は降り注いでいたが、重厚なガラス張りと重工な空調装置が小生をあの灼熱から切り離してくれる。
しかしそれとて永遠のものではない。
 一刻も早くこの地を脱出せねば、小生は早分に干からびてしまうのだ。

 さらなるゲートを潜ると、1台のバスが停まっていた。
席はほぼ埋まり、幾人かの立ち客の一人に混ざると程なくバスは動き出した。
草木の一本も生えていない広大なこの地は、さながらコンクリートとアスファルトで固められた広大な都市砂漠だ。
 はるか遠くに先程まで小生がいた建物群が固まるように聳えている他に何もない、無機質で大都会近郊にしては異常なまでにフラットな空間が続いている。もしこのバスから放り出されたら、今も灼熱を送り続ける陽光に焚かれ、一瞬にして全てが業火の消し炭となってしまう……

 そんな小生の懸念は、幸いにも妄想で終わった。
バスは程なく停まると乗客を一斉に吐き出す。
先には荷台の代わりに階段を載せた珍妙なトラックが停まっていた。市内ではまずお目にかかることがない変な車が載せている階段を、市民たちは何の疑問も持たずに登っていく。
 集団圧力、同調の空気とはまさにこのことだ。
小生もまた照りつける陽光から逃れるべく、市民たちとともに粛々と階段を登った。

 それから数瞬の時を経て、小生の身体は文字通り浮遊していた。
眼下に広がる列島を眺めながら、小生は大地を離れ悠々と大都会からの脱出を果たしたのだ。
どこまでも広がる雲海を紅く色づける斜線光が照らす中、現実を縛る何もかもを投げ捨てて小生は空の中を進み続ける。
 目の前には2つの紙コップ。それはコンソメスープとお子様向けのアップルジュースで満たされていた。この空間にスカイタイムなどが入り込むは余地ない。
これは大人である小生の人生の悲哀と熱中症対策の塩分をコンソメスープに見出しながらも、子供のような純粋さを今でも保ち続ける清純な小生の印象をアップルジュースに託すことで、相反する2つの概念を飲料で表しているのだ。
 しかし、重量がある限り人は必ず地に落ちる。それはこの小生たりとも例外ではない。やがて重量に惹かれるように小生は再び大地に足をつけることなった。

 コンクリートに熱が反射する大都会のような暑さからは逃れ得たもの、やはり廻りの気温は高い。
むわっとした湿気を吸い込み、小生は先へ進むべく歩みを続けた。
小さな建物を抜けると、2台のバスが停まっている。
同じような行き先を掲げた高速バスと、路線バスだ。
 小生は路線バスに足をかけ、運転手にこう尋ねた。
「この路線バスと、あの高速バス。同じ場所へ行くにはどちらがより安いのかね?」
運転手は答えた。
「へい旦那様。アッシが走らすこの路線バスは10円ほどは安くはつきますが、時間も快適性も高速バスには勝てねぇもんでね。悪いことは言わねぇ。旦那様のようなオキャクサンはあちらのバスのほうがお似合いですぜ」
なるほど、10円くらいであれば、そこまでケチるほどのこともあるまい。小生は礼を述べると高速バスへと乗り移った。

 夕闇迫る国道をバスが走る。
いつしか夕陽は日暮れを迎え、わずかに西の空が青く色付くばかりだ。
市内から郊外へ帰る労働者だろうか。反対へ向かう車はほどほど混んでいるが、小生が進む方向はそうでもない。
街道沿いの町並みを眺めてみたが、やけやたらにうどん屋ばかりが目につく。
食文化が違う地なのだ、ここは。
 ゆめタウンを超えるとそれなりの街中に車窓も変わってくる。相変わらずうどん屋ばかりが点在する中、バスはゆっくりと乗客を減らしながら進んでいった。

 当地を支配する行政府の前でバスを降りようと構えていたが、うっかり小生としたことが押し釦を押し忘れてしまった。バスが提供する最大の旅客向けエンターテインメントたる押し釦を押すタイミングを逃すなど、運賃の半分をドブに突っ込んだも同然だ。
「県庁前」で降りたい小職の願いすら載せたまま、バスは次のバス停に向かって走り続ける。
 慌てて押し釦へ手を伸ばした瞬間に、無機質な動作音と「次停まります」の合成音声が流れた。
くそ、くそ!クソ!!!!
誰だ!?吾輩の押し釦を勝手に押したトンチキ野郎は!絶対に許さない!!!
 強い怒りを秘めながら停まったバスから市内へと降り立った。

 小生は結局、小さな存在なのだ。
勝手に押し釦を押した不逞の輩に、実際に抗議するほどの度量も無ければ勇気もない。
トボトボとオフィスビルとうどん屋に囲まれた街中を、予約した宿を探して彷徨うことしか出来ない哀れな羊、資本家に飼われた社畜に過ぎない。
 バスが来た方向へ引き返そうとすると、先程見送った路線バスが小生の横を掠めていった。

 夜分の来訪にも関わらず、宿は丁重に小生を迎えてくれた。
小さいながらも一通りの設備が整ったこの部屋に荷物を放り込むと、空いた小腹を満たすべく思案を巡らす。
とは言え、安直にうどんというのも芸がない。
 小生は小さなところで差別化を図ることでその自尊心をリーズナブルに満たしうる効率的な心すら持ち合わせている。
早々に現地に住まう旧知の民を呼び出し、うどん以外のソリューションにして諮問をすると、かしわバター丼が答申された。
なるほど、最適なソリューションじゃないか。小生は決断が早い。
瞬間、提案を採用し、夜の街へと丼を目指して繰り出した。

 小腹を満たすには幾分か過分な丼を平らげると、夜も更けてくる頃合いだ。
現地の民に別れを告げ、小生は宿の自室に戻ると徐に備え付けの紹介を見ると大浴場があるとの記載がある。

 なるほど、たしかに今日は汗をかいた。ならば一日の疲れを湯とともに洗い流すのもの一興であろう。
小生は浴衣と着替えを持つと悠々と浴場へ向かった。

 風呂場は閑散としていた。先客は片手で数えられるほどしかいない。
先に洗い場で汗と疲れを石鹸できれいに流しさり湯船に足を向けると中にいる男と目があった。
その目に小生は見覚えがあった。
 忘れることはない。
この目こそ艦これ小説界隈で奇妙奇天烈な性癖をパブリックドメインとしてワールドワイドに発信するばかりか、その駄文を商品として日銭を稼ぐ悪辣同人作家笹松しいたけの姿である。

 小生は目を疑った。
ここは宿の施設とは言え、或る種の公共性を帯びた場所である。
宿泊客に限られるという建前こそあれども不特定多数が利用する場所で、この笹松は不敵にも全裸の姿を開陳し湯船に納まっていたのである。
 非常識にもほどがある。
堂々と全裸で都市のインフラを使用し、あまつさえその陰部を隠そうともせずタオルを湯船のヘリにおいたまま真夏の海に漂う海月の如く湯船に浸かるその姿に、小生は確信犯を超える表現を見出すことが出来なかった。
 笹松は小生の姿を認めると、ただニヤリと口角をあげるばかり。
それは全裸で公共の場を闊歩する己への自身に裏付けられたマウントであり、卑屈な小生に対する無言の威嚇である。
 全裸で開示された笹松のグラスノスチはお世辞にも超大国などではない。例えるならば瓦町の志度線へ向かう連絡通路の如く貧相なものでり、決して恐れるようなものではない。
にもかかわらず小生は畏れてしまった。

 これは笹松の堂々たる全裸闊歩への敗北である。
彼はただそこに存在するだけでこう語っていたのだ。
(暑いのであれば、服を脱げ。)

 事実そのとおりなのだ。
何もここまで逃避する必要はなかった。ガラス張りの防壁も、重厚長大な空調設備も、灼熱の暑さに晒される大都会から逃れる本質的な手段ではない。
服を脱げば熱は放出される。
小生が求めていたものは、単に全裸になれる勇気だけだったのだ。

 全てに敗北した小生は、ただただ笹松の全裸から逃れるように、―――いや文字通り全裸から逃れ、自室へと籠もった。
 あの夜の笹松は単なる露出癖とは異なる全裸への尊厳と自信を自らの視界に入る汎ゆる存在へとぶつけていたのだ。

 これはある夏の話だ。
今となっては、この話を過去の出来事として振り返るだけの時間が過ぎた。
そして今は懐かしむだけの心の余裕も生まれた。

 笹松とはあの湯船以来、邂逅していない。
だが、もし次の機会に笹松と邂逅したとき、彼が全裸で小生の前に姿を表したと想像だにするだけで寒気が走る。
 それが小生にとって最高の熱中症対策になるのだ。

=完=

生活が苦しい