おせる押しボタン

 電気という発明は人類のライフスタイルを大きく変えた。それは生活の様子だけではない。生物としての人間の行動すら変えてしまったのだ。その最たる例は機械を動かすためにスイッチを押下するという手順が意思決定を具体化されるための動作として導入されたことである。
 現代の我々は、あらゆる場面において意思決定の動作としてスイッチを押す、入れる、点けるということを日常的に行っている。ともすれば意思決定そのものをスイッチのオンオフという概念に仮託すらしているのかもしれない。
 要はスイッチという概念が持つ本質は、意思を具現化する手段であり目的ではないのだ。しかしあまりにもスイッチを入れることが日常的な動作となった結果、実際にはスイッチを入れることそのものが目的となっている場合があるのだ。

 さて、そろそろ本題に入ろう。今日はバスの押しボタンについて哲学的な話をする。
 まずバスの押しボタンを押すということは、一義には次の停留所にてバスを降車したいという旅客の意思を表すものであるが、この作法は高度経済成長期に定着して以来、さほどの変化も発展もない停滞した行為に他ならない。現在では様々な技術が開発されている。例えばオンラインで下車バス停を指定し、リアルタイムでバスの運行支援システムに転送することなどは、その気になれば実用化までの時間は然程かからないことだろう。他にも「降ります」というフレーズを音声認識させることも出来れば、トイレの蛇口のようにセンサーに感知させることで機械が作動し、降りたい意思を乗務員に伝えることだって夢ではない。日本の技術的な発展と熟成は、降車意思表示装置に無限の可能性と多様性を保障しているのだ。
 にも拘わらず、現実は今年納車された新車から沖縄県で動態保存扱いとして未だに現役にとどまっている730バスまで等しく押しボタンが装備されている。古い路面電車に至っては、わざわざ押しボタンを追加で装備する改造を施してまで維持されており、この光景を諸外国から見れば異様な姿にすら見えるかもしれない。
 この日本社会が必死に保ち続ける押しボタンへの必要を大幅に超える執着の源泉はどこにあるのだろうか? 実のところその理由は明解である。すなわち押しボタンには降車の意思を表示する以外の目的を担っているのだ。

 結論から述べよう。
押しボタンの本質とは、ボタンを押させることそのものをサービスとして提供するエンターテインメント装置という点にある。バスの乗車というとかく退屈で窮屈な時間を少しでも快適に過ごしてもらいたいというバス業界の誠意が原動力となり構築された限られた環境下で実現できた唯一の旅客サービスなのだ。

 そもそも人間とは、本能的に押しボタンを見れば押してみたくなる生き物である。それは全く高等教育を受けていない幼児の前にボタンを差し出したとき、どのような結果が生じるかを考えれば明白である。幼児は何のためらいもなくそのボタンを押すことだろう。その動作の源泉は理屈や知的な関心に由来する興味ではない。本能的にボタンがあれば押す。ただそれだけのことであり、冒頭で述べた人類が社会の変化に適合した姿の象徴でもある。

 では押しボタンを押すことで一体どのような効果が得られるのであろうか?
それは偏に満足感である。ボタンを押すという行為そのものにより心に平穏が持たされる。今風に言えば癒しである。さらに押しボタンは、押させることで「次止まります」の文字が光り、押された瞬間には音も鳴る。さらには「次止まります」とアナウンスが流れ、ここにボタンと操作者との間にコミニュケーションすら成立するのである。この高度に完成された押しボタンのギミックは、社会に安定をもたらし、結果として日本社会の安定を支える大きな要素となっている。
 この押しボタンを押すことそのものがサービスになるという感覚を諸君らの身近なところで例えるならば、アイマス(IDOLM@STER)ライブにおいて落ちサビでUO(極)を折るようなのものだと言えば共感を得られることだろう。一瞬のタイミングで帰ってくるバネの感触と光と音。五感を活用した反応が同時に戻ってくる一体感。人類の叡智は最高の快感を押しボタンを通じて与えることに成功したのだ。
 事実、治安が悪化している地域では、軒並み日本と比較して動作しているのかよく分からない劣悪な押しボタンが装備されているか、甚だしきは車掌を載せて押しボタンサービスを提供すらしていない地域もあるという。
まったく以て想像だにつかない恐ろしい世界である。

 しかし押しボタンには致命的な欠点がある。それは連打することができないという点だ。押しボタンが建前として次の停留所における降車意志の表明する機械として定義されている以上、押しボタンを押す権利は1停留所あたり1回しか発生せず、さらには押しボタンを押した場合はバスから降りなければならない。
 必然として押しボタンを巡る争いが生じる。とはいっても高度に安定した日本社会で押しボタンを巡る争いは、暴力を伴うような事態にエスカレーションすることは稀である。それは既にアイマスを始めとする代替手段が大量に供給される体制が確立されているからであり、他に娯楽を知らない子供が押しボタンを巡って喧嘩に至るプロセスは、この説明により完璧に理論化できるのだ。
 押しボタンを巡る駆け引きは、どのタイミングで押すべきかという腹の探り合いである。特に大人数が下りるターミナル駅にバスが到着する直前は殺伐とした雰囲気が漂っていることも屡々ある。時間やタイミング様々な要素が絡み合いながらも、時には譲り合いの美徳が見られることがある。昨日は押せたから今日は譲ろう。そんな心温まる配慮を織り交ぜながら、押しボタンは次の停車を告げるのだ。
 偶に終点のバス停で押しボタンが押されるのは、争いに負けた腹いせに押す必要がないところでも押しボタンを押すことで心の平静を得ようとするストレス社会に晒されたサラリーマンの悲しい抵抗であり、ささやかな幸福を求める小市民の涙なくして語れない努力の姿でもある。
 もし既に反応したボタンを必死に押している人を見かけることがあるかもしれない。それはせめてボタンのバネの感触だけでも得たいという敗者の哀れな姿であり、そんな時はそっとしておいてあげて欲しい。

 ところで、もしあなたが降車するバス停が近づいてきたとき、近くに親子連れが騒いだとしたらどう対処するのが適正であろうか?
子供は「押しボタンを押したい」と駄々をこね始める。
母親は必死に「降りるバス停まで待ちなさい」と諫める。
すると子供は「もう押していーい?」と問いかける。
もちろん母親は「まだ着いてないでしょ。あとn個後のバス停まで待ちなさい」と𠮟りつけ、子供を制御しようと試みる。
 そしてあなたは愕然とする。それは親子連れが目的としているバス停があなたが降りるべきバス停と被ってしまっていることに気が付いたからだ。
 もちろんあなたは押しボタンを押したい。しかし社会人として子供に譲るべきではないかという良心と欲求の間で葛藤が始まる。いや、ここは気を遣って一つ前か先のバス停で降りて、ボタンを押す行為と引き換えに歩く気配りをしたほうが良いのか?だが安心してほしい。きちんと本稿はその葛藤に対する明快なロジックを提供することが出来る。

 前述のとおり押しボタンの真価とは偏にバスの旅客に快適な反応を約束するサービス装置である。サービス装置を用いる優先順位は、運送に対して支払った費用の額によって優遇されるべきだ。それは課金をすることでエコノミーから上級クラスへグレードが上がることや、普通車から快適なグリーン車へのランクアップと同義であり、ともすれば同じエコノミーでも航空券の値段によって事前に指定できる座席の範囲に差が出ることと同様である。
 つまり半額で乗っている子供に遠慮する必要はない。定期券運賃や正規運賃を払っているあなたにこそ押しボタンを押す権利があるのは明白である。もし抗議されたなら、あなた紳士的ににっこり笑ってこう言えばいいのだ。

「坊やに押しボタンはまだ早い。大人になって運賃を自分の稼ぎで払えるようになってから払いな。親のすねで押しボタンを押そうなど20年早い」

 自信を持って、心を込めて、あなたはひとつ前のバス停を出た瞬間に押しボタンを押すという栄誉と偉業を達成するのだ。

 さぁ、押しボタンは今のこの瞬間もあなたに押されることを心待ちにしている。

生活が苦しい