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雑文

模様替えをした。ベッドの跡だよ。
実を言うとまだパズルマットの切っていなかった分が残っている。(部屋の端っこに敷く。苦手分野)今は夜中だし、後に回そう。
なんと、ベッドはスノコが取り外せて、そこまで取り外すと1人で動かせた。うれしい。1人でできるとなんか嬉しいのだ。充実感がある。

家での扱いに耐えかねて、恐怖から実家を飛び出して一周年ぐらいになる。
それからアダルトチルドレンの自助会に通い始め、精神科で不安感を抑える薬をもらい、機能不全家族、トラウマ、アダルトチルドレン、生きづらい、(毒親)といった単語に関わる本を図書館で借りたり、買って読んだりしている。
なんていうか、やーーーっと、やっと自己評価が「あたりまえのことができない努力不足のクズ」から、「苦手なこともあるけど頑張っている」へとシフトチェンジしつつある。
「どうしてできないの?こんなこともできないの!あなたは病気もないのに?恵まれているのに?」と親は私ができない苦痛に対していつもびっくりしていたし、私は母親に好かれたかった。親側の考えをインストールして、どうして親のような性格でなくてこんなに、と自分を責めていた。
自分を責める気持ちが強すぎて、色んなことによく疲れたり、できなかったりすることにやっと気づいてきた。

親が不機嫌になることは多かった。世の中へ、貰い物へ、他の家族への悪口を言っていた。「かわいそう」だと私は親へ思った。「私が幸せにしてあげたい」と思った。別に親は私にそんなことを望んではいなかったけれど。
留守番は寂しかった。生まれてきて両親や家族を幸せにしたとは思えなかった。私の存在が家族を喜ばせていると、愛されているとはよく思えなかった。
仕方なく生きてやっていた。「これがいいんじゃない、あなたはこれは無理なんじゃない」と親は言った。私は頷いた。大きな選択をする時「それはわからないから自分で選んで」と言われた。
円形のカットピザからどのピザを選ぶか、選んだことがなかった。他人を優先しなさいと言われていたから、一番肉が載っているピザを自分の皿に取ったら、恥知らずかと思われると思っていた。
そんなことをやっていたら透明人間になってしまい、生きてるのも面倒くさくなっていた。
兄は烈火の如く起こることがあり、私はご機嫌を取ったりした。兄は体調不良でイライラしていることも多かったが、ブチギレる前にははぜかニコニコした。その後に「俺がこんだけ我慢したのに」と兄はものすごく怒り、ぶん投げたり襖に穴は開き、親は呆然とし、私はひたすらに兄を読もうとするようになった。両親は鈍かったので読めなかったが、私が読みまくると、兄はかろうじで、大体うっすらと読めた。
兄は友達がいなかったから友達になろうとしたし、理解者になろうとした。高校生の時から、兄は学校に居つけず、このままでは兄はいつか生活保護になって、兄はプライドが許せずにキレ散らかし、その時両親が死んでいたら私はそれを1人で受けなければいけないんだ、と思った。惨めで怖くて恐ろしいと思った。縁を切るなら家族ごとで、私は家族を見捨てなきゃいけないんだと思った。嫌だった。愛されたかった。縁を切るなんて家族への攻撃だと思った。大学生の頃、私がなんとかしないと、と思い、でもバリバリ働いて家族にお金を入れる未来も想像がつかなかった。ずっと人が怖かった。

相変わらず過去からの話をしようとすると、非常にまとまりがない。

なんかでも、私がこうなったのは子供の頃の環境にもよるのだ、と思う。
「すごいね、こんなこともできるようになったんだ!」よりも、幼稚園から帰って、私が作ったものが捨てられていたことに気付いたり、私の作ったものは捨てられるけれど、兄のは残されていたり、そういうことに恥辱感みたいなものをうっすらと抱くようになった。
兄がいじめられていた分、母はすごいところがあるじゃん!と兄を励ましたかったのかもしれない。
私(が作ったもの)は役に立たないんだなぁと思った。
私は(兄はそうではないのに)学校に行けてよかったねと思われていた。楽しかった話を家ですると、兄が劣等感からか不機嫌になる気がした。

母は自分が幼少期に受けられなかったものはあまり私にくれなかった。少女漫画、シール、メモ帳。
ピアノと美味しいご飯はくれた。
別の習い事は辞めたくて親に言ったら、がんばってみない?と微笑まれたから行ったが、分からずに突っ立っている私はチームの邪魔で、すごく帰りたかった。すごく嫌だった。小学6年の先輩にため息を吐かれ、舌打ちされ、私はリズムもわからず、嫌いだった。先生に辞めたいと言えず、バカみたいだった。嫌な先輩が熱中症で死にかけて大変だったと聞いて、死ねばよかったのにと思っていた。私は無口な子供で、大人には無表情か、ヘラついて過ごしていた。

お金がかかる、と母がよく言っていた。
メモ帳や文具や私の欲しいものは今考えれば大した額ではなかったので、与えてやればよかったのに、と今なら思う。私がピアノでうまく弾けず苛立つと、月謝が高いのよと言った。誕生日とクリスマスだけプレゼントがもらえた。残りは誕生日やクリスマスにもらったゲームをしたりして過ごした。人生ってつまらないなと思った。同級生の子とうまく喋れなくて、私はいつも自分がバカみたいだと思っていた。今考えれば同級生達も碌なことを喋っていたわけではないけれど。

いい子というゲームをしていた。
人をいじめてはいけない、親や先生の言うことを聞く、迷惑をかけない、お金をそんなに親に使わせない。
やってはいけないことリストをもらって、それから考えて提案して、ダメだと言われたらそうか、と思うような子供だった。みんなはルールを破っている、と思った。先生たちは出来の悪い私のことが好きではなさそう、と思った。
小学生の頃、家事をしている母に話しかけたら「あなたの話は何を言っているか分からない」と怖い顔で言われた。機嫌が良くなかったらしい。今日会ったことをにこにこと話そうとしていたんだけれど、あまり普段から会話をしていないから、喋りが達者じゃなかったのだ。悲しかった。

ええと、そう。
最近は、それだけ否定されたらこうもなるよね、と少し思えるようになった。家庭内で兄はよく包丁を持ちだし、○○を拷問して殺すと夕飯の時に喋り、私は怒ったりヘラヘラと親に提案したが、「仲が良い」と思われていた。今考えるとなんらかの介入が必要な状態だった気がする。寝てる時に兄が包丁で刺してくるかなと思った。足音や階下の話し声が漏れ聞こえ、私は床に耳を押し当てた。うるさい時は、近づかないほうがいい。

人と会うとものすごく疲れ果てたり、感情をたくさん抱く癖に処理が下手なのも、でもがんばってるね、と思えるようになってきている。
ひたすらに自分が無能だと思っていた。
でも家庭環境も心理的安全とは遠かった。
家族は私の不安感を取り除いてくれなかった。気にしないでとか、泣けるだけいいのよとか、これは親戚に言わないでと言った。
子供の頃の私が無力だったのも仕方ない。子供の頃の私はとてもがんばっていた。どうにかならないかと親に話もした。じゅうぶん、いやそれ以上にがんばった。

最近は親にキレる夢を見たりする。それで良いと思えるようになった。親も大変だったかもしれないが、私には必要なケアが足りていなかった。
それは、つらかったね。
親友に接するように自分に接していこう。
まだ他人の問題を自分のせいだと思うことがある。
なにもかも無意味だと思うこともある。
ありきたりだが好きな人がいる。
嬉しいことだね。

人が怖いのと無能感と不安感と失敗が怖く、うまく堂々とできない時がある。とてもお金が入ってカウンセリングとかも受けたいなと思ったりしている。
「怒らない?」と付き合っている人に聞いてしまう。
たまに外出して、立ち上がれなくて数十分経過したりする。
障害者手帳をとるほどのことでもなさそうなのだが。

軽く行こう、と最近読んだ本には書いてあった。
そうだね、そうだよ。

私と私でダンスを踊ったりしよう。
私と私で笑ったりしよう。
それは許されているはずなんだよ。

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