1つのことを伝えるには2時間かかる―アメリカン・フィクション

映画アメリカン・フィクションを観た。
コメディではあるが、予告がいかんせん暗い。そんなものかと思って見たが案外面白い。主人公は離婚経験済みの男で、頑固だ。才能があるけれど売れず、必要とされている白人の罪悪感を埋め合わせる黒人のトラウマ、みたいな文学に怒りを覚える。
主人公は自分の弱さ(自分の主義とは違うのに金のためにゴミと自負する作品を売ること)を受け入れられず、苦悩する。
辛さを男性が大声で強く言えば、威圧的になる。

ポコポコ死ぬ身内や親の介護(アルツハイマーの母の演技がうまい)がこうして映画になるところまで来ているんだなぁと思いながら見ていく。
文学を題材にした映画がもはやエンタメになり、そして黒人系アメリカ人が売れるために「黒人系アメリカ人像」をなぞることへの悲しみと怒りとうんぬんかんうん。

バード・マンを思い出したりしながら、そう、高尚な文学ならここで切るよなぁと思いながら観ていた。

まぁしかし、情けなくもココラインから電話はなく、ふがいなさを感じながらも、仲の若干修復された兄の車に乗って帰る。
人生は劇的でもハッピーエンドでもないが、若干の諦めもありながら、ありふれたものがぴったしだってこと、あるよね。

この映画、要約すれば黒人系アメリカ人の現代における扱われ方の問題、みたいなものなのだろうが、いくら文章で載せるよりも、結局のところ映画になれば2時間話を聞いてもらえるっていう気持ちも大きい。

映画になれば魚のように解体してもらえ、様々な視点で切り分けられ、みる人も多い。

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