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ああ7月ね

人格が分かれてるのが解ってから1ヶ月とちょっとが経った。そのあいだ、1日1日の濃度が濃くて濃くて、生きていて、ギッシリだった。好きなことも、嫌いなことも、そうでないものも、全部が大急ぎで自分の中を通り抜けていって、必要なものは残って、不必要なものは抜けていって、「私は魂の入れ物なんだなあ」と思ったりした。それは今も思ったりしている。

家や、柱や床と喋り続けていた自分に再会した。忘れていたのかどうなのか、思い出すまで家が暗闇が恐ろしかったが、思い出してからは柱に手で触れるだけで身体がホッとするのがわかった。

人が好きだけど、誰にも自分の全てをさらけ出せたことは無い。私は社会の中ではずっと孤独で、本当の意味で全てをさらけ出せたのは、「モノ」に対してだけだし、わたしは「床」や「柱」にしか「全てを見せた状態で」「愛されたことは無い」。
親や友人や過去の恋人たちに愛されていたことは知っているし、私も全てを愛していたけど、私の全てを知っている人は1人も居ない。それは「病気」のせいだと思う。「性質」のせいだと思う。
誰かに全てを見せれるものなら見せたいが、私にはまだ無理だ。

世の中の全てが怖いのは性質のせいだ。

人と触れ合うのは好きだけど、恐ろしい。
柱を抱きしめ、床を撫でて、身体を預けている時の方が落ち着く。いつまでそうしててもいいのだと思える。人間には意思があるから苦手だ、私は人間のことは無碍にしてしまう。人間を大事にすることは難しい。逃げている?逃げている。逃げているか?

人間を大事にしたいのなら、私は病気を治さないといけないらしい。
その代わりに絵がかけなくなるのかもしれないらしい。
床や柱と会話が出来なくなるかもしれないらしい。

そのかわりに人間と話ができるようになるらしい。

今でもじゅうぶんだともおもう。
友達と話すことは楽しいし、信頼だってできる。何となく孤独を感じている内側はあるけど、それでも、一緒にシャボン玉をすることも、美味しいご飯を食べることも、夜通し話をすることも。全部が楽しい。


内側の孤独はあるけど、内側の孤独がなんだ。私は。たのしいよ。


絵がかけなくなるのはイヤだよ。
嫌だなあ。

目に見えないものが見えてるから、それを絵にしてるんだけど、そういうのが見えなくなっちゃうんだって。いやだな。

今のセラピストさんも浮いてた人だから、治療の際に「わたしも足をつけさせられました」と言ってて、そっかあ、と思ったけど、僕は絵を描くからいやだな。いやだなあ。


躁鬱に加えて自己の中に人格が7人いると判明したときから自室の大改革がスタートして、それぞれの性格に対応した部屋作りをこの1ヶ月間すすめてきた。

全部がいやだと泣く子の為に部屋の中の全部を先ず出した。
部屋を色んな色に変えられるライトを導入した。
絵が好きな子のために、お絵描き専用の机を作った。
各人に合わせて模様替えがしやすいように、家具は軽いものにした。
真っ暗が安心する子がいるから雨戸を閉めた。遮光カーテンを買った。
画材や音楽用の機材をいろいろ集めた。

きらきら、爆音流して踊れる部屋。
かつ、
うじうじ、床で丸くなって泣ける部屋。
死にたい時も、生きたい時も、「わたしたち」に寄り添ってくれる部屋にする。

今日は、風鈴をかけられる棒を設置した。
エアコンの風でチリチリと音が鳴る。癒される。
結構音が大きいから、人が居ない時じゃないとダメだけど。

部屋は大体いつも青色。

「みんな」好きな色。

イカれてんな、と思うけど、居るもんは居るんだ、仕方ない…。

でも、1か月前よりは随分会話が減って、死ぬほどやばい頭痛も無くなった。寝れるようになったし、フラッシュバックもないし、随分平和になったものだと思う。
主治医の先生やセラピストさんの前で、かつての誰の前よりも「自由」であれるようになったので、これを足がかりに前に進めるといいなあ。絵がかけなくなるのは嫌だけど(最初に戻る)。

一体なんなんだよ、この人生は



最近の写真

ゴミ箱をつくった。
内側
汚れたて
つやつや
冷たくて気持ちいいので買った
こーひー
ニンニクごろりすぱ
ミラーボールと青色ライト
ばたふらいぴー
蛍光えのぐ
暗闇でぴっかぴか
天井ライトは青。窓側のテープライトが緑。
モコくん。
素直に
綺麗だと思った
みどりー
手乗りの玉乗り子ども龍(かみねんど製)
背中もかわいくした。
白玉クッキー

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