厚氷を割る音
むかしの冬は本当に寒かつたものだと妙なところに感心した。内田百閒の『東京焼盡』を読みながらのことである。
十二月下旬の日記に「真暗闇の軒下にて用水桶の厚氷を割る音があちこちから冷たい往来に響き返つた」とある。現在の十二月の東京では薄氷さへ珍しからう。
『東京焼盡』は東京が初めて空襲された昭和十九年十一月一日から翌年の敗戦直後までの百閒の日記である。警報や空襲の記録の合間にある、誰誰が麦酒を持つて来てくれたとか、お酒の配給があつて久しぶりに酔つ払つたなどの記述がいかにも百閒らしい。
真夜中に警戒警報が発令され、起き出した人人が火災に備へて用水桶に張つた厚い氷を割る。その様子を日記は伝へてゐる。
私の母方の祖母が東京の池袋で空襲を体験してゐる。空襲からは生きのびたものの、復員した祖父を迎へて間もなく病死した。後に祖父が再婚したこともあつて母の実母のことは大人になるまで知らされなかつたし、知らされたときも正直実感が湧かなかつた。
それが最近、私の遺伝子の四分の一を遺してくれたこの女性のことが気になるのである。『東京焼盡』を読むのもひとつには彼女の体験したことを知りたい気持ちからだ。
祖母は乳がんだつた。祖母といつても当時は三十代である。新潟の出身で東京には祖父以外に身寄りはなかつた。辛い症状もあつたはずだが、日日空襲に見舞はれる東京では満足な治療も受けられなかつたのだらう。
むろん祖母のやうな不幸な女性は大勢ゐたに違ひない。或いは祖母の場合死の直前に、疎開してゐた母と復員した祖父に再会できただけ幸せだつたと言へるのかも知れない。
空襲はいつからか空爆と呼ばれるやうになつて現在も続いてゐる。そこで本当に起きてゐることを私は想像することしかできない。
別の日の日記で百閒は、厚氷を割る音でラジオが聞き取れないとぼやく。後に手に入るが、当初百閒の家にはラジオがなかつた。警戒警報が出るたびに表に出て、よその家からもれ聞こえるラジオの情報に耳をそばだててゐたからである。
空襲は連日のやうに行はれ、大晦日の夜にも元日の未明にもあつた。七十年前の冬の夜、祖母は厚氷を割る音をどんな気持ちで聞いたことだらう。
「京都新聞二〇一五年十二月二十一日季節のエッセー」より一部改稿
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