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「清き祈り」第21話

「母達は月曜日の昼に集まって、杼機さんにもらった鹿と兎を食べていました。で、これです。ジビエ料理の注意点」
 差し出された数枚の紙は、ネット記事をプリントアウトしたものだ。ただ、読まなくても大丈夫だ。ジビエ料理の注意点ならよく知っている。
「私は幼い頃から山の獣を食べて生きてきたから、注意点はよく知ってる。E型ウイルスやトキソプラズマの感染、食中毒を防ぐためによく火を通して食べてって、差し上げた肉にもメモをつけておいたくらい」
「そうですか。じゃあ、トキソプラズマ感染が人の性格を変える可能性があるって話は、知ってますか」
 それは、初耳だ。すぐに選ばれた一枚を受け取り、内容を確かめる。
 「トキソプラズマが自身の生存と繁殖をしやすくするために、宿主の性格を変えて行動を変化させている」。
 確かに、トキソプラズマの繁殖サイクルにはネコ科への感染が必須だ。そのために捕食対象であるネズミに感染して脳をコントロールし猫に「食べられやすくする」らしい。不安や恐怖に鈍感になり、猫への警戒心が薄まる。それと同じ作用が感染した人間の体でも起きている、という説だ。
 俄には信じられないし一見しては都市伝説的なものに思える。でも、大学でも研究が続けられているようなものらしい。
「こんなの、よく知ってたね」
「俺、生物が好きで。こういう記事、よく読んでるんです」
 私は開かない系統の記事だ。トキソプラズマ症自体は知っていても、基本的な知識しかない。
 トキソプラズマは寄生虫の一種で、人間だけでなく多くの哺乳類や鳥類に感染する。日本では豚の感染例が多いが、鹿や猪、鴨でも十分考えられる。人への感染は感染した動物の肉を加熱不十分なまま食べたり、猫の糞に触れたりすることで起きる。健常者が感染しても多くは目立った症状なしに慢性感染へと移行するが、免疫力が低下している人が感染すると重篤な症状を引き起こすことがある。確か、妊娠中も注意が必要だったはずだ。
 ただ、別に珍しい感染症ではない。日本はもちろん、世界中に蔓延している感染症だ。もし感染した人間の性格が変わってこんな事件や事故を起こしていたら……いや、まだ症状の一つとして認められていないから、結びつけられていないだけかもしれない。
「俺は、母達が加熱の重要性をちゃんと理解せず、中途半端な焼き具合で食べたせいでトキソプラズマに感染したんじゃないかと思ってます。乱暴なのは分かってるけど、それくらいしか可能性がなくて」
 俯く和徳を前に、過去に記憶を馳せる。
 岸川、惣田、朝岡がBBQをしたのは、十一月末だ。そのあと、岸川、惣田、朝岡の順にBRPのせいではないかと思うほどのおかしな行動が見られて、死に繋がった。朝岡に至っては、二回獣肉を食べている。佳代子と共通しているのは、鹿肉か。
 ただ吉継も、冷凍と加熱の重要性はよく分かっているはずだ。そのために冷凍庫をマイナス六十度設定のものにしたはずだし、加熱不十分なものを彼らに食べさせるとは思えない。何かの偶然が重なってしまったのか。
 矢上に肉を渡したのは十二月四日の金曜日。月曜日の昼に三人が食べて、火曜日の夜にはおかしな様子が見えていた。それと。
――そうだ。うちもこの前吉継くんにもらった鹿肉があるから、それいただくわ。じゃあね。
 あれは、惣田が来なかったセミナーの日だから、十二月六日か。
「ちょっと待ってね、確かめたいことがあるの」
 すぐに腰を上げ、携帯を手に寝室へ向かう。呼び出した篤は、すぐに応えた。
「どうしたの?」
「ちょっと、思い出して欲しいんだけど。十二月六日日曜日のお昼ごはん、猪鹿鍋じゃなかった?」
「え、昼ごはん?」
 面食らった様子の篤は、小さく唸った。母は面倒くさがりで、下処理をあまり丁寧にしない。町の出ではないから、寄生虫やウイルス対策を軽んじているところはあった。母は多分、佳代子達と同レベルだ。
「分からない。俺、日曜はほぼ友達と遊びに出てるから食ってないし」
 食べていない。一歩近づいた仮説に、唾を飲む。
「おじいちゃんは、食べてた?」
「いや、食べてないんじゃない? 日曜の昼なら猟で握り飯じゃん」
 ああ、そうか。祖父はシーズンになると日曜日に猟へ出掛けて、昼は家で食べない。食べたのは両親と、祖母。
 繋がった。
「昼ごはんが何?」
「ごめん、今はまだ言えない。きちんと説明できるようになってから、改めて話をするから。ありがとう」
「いいけど、頼むからもう大人しくしててよ。明将さん、姉ちゃんのこと『整田の暴れ馬』って言ってたよ。毒を食わせてでも大人しくさせろって」
 予想できなかった反応ではない。祖父母と両親が死んだ今、大人しい篤と大人しくない私の差が際立つようになった。町のつつがない運営に、私は明らかに邪魔な存在だ。
「いよいよ殺して厄介払いしたいわけね」
「いや、明将さんは『どうせ腹が痛くなるだけ』って言ってた」
 あいつ、と思わず漏れた悪態に、篤は久しぶりに笑った。
「あの人、姉ちゃんのことすげえ認めてるよ。だから今回のことも、こんなに助けてくれたんだと思うし。普通なら吉継くんに離婚させて、家ごと切り捨ててるよ」
「まあね」
 と答えたものの、篤の考えはお人好しすぎる。実際のところは恩を売っておきたいだけだろう。最終的に私に飲ませたいのは多分、自分が町長になった時の秘書だ。不義理はしたくないが、なりたくはない。どうしたものか。まあそれは全て片付いてからだ。
「ごめん、ばたばたしてるとこ。ありがとう」
 礼を言い、通話を終える。トキソプラズマ症の可能性は少なからず高まった。でも私の幻覚も、トキソプラズマのせいなのか。確かめたクローゼットの扉は、大きく開け放たれていた。化け物が全て出払ったあとなのかもしれない。犠牲者は、もう出ないのか。
 リビングへ戻り、待っていた和徳の向かいに再び座る。
「実は、矢上さんに差し上げた鹿肉と同じものを、夫が私の実家へお裾分けしてたの。母は十二月六日日曜日の昼に、その鹿肉を使った料理を作った。食べたのは両親と祖母で、そのあとから諍いを起こすようになってた。そして、十一日の夜に事件が起きた。祖父は普段と違う様子を見せた三人を撃ち殺して、自殺した。私が怪我をして、和徳くん達の町で事件が起きた少しあとにね」
 和徳は奇妙な偶然で結びついた二つの事件に目を見開いたあと、俯いた。
「じゃあ、どうすればいいんですか。どうすれば母を」
「落ち着いて。とりあえず、同じ鹿肉を食べた私の血液検査をしてもらってトキソプラズマに感染したかどうか調べるの。一緒に、食べた鹿肉がトキソプラズマ感染していたかも調べる。一つ一つ、可能性を確かめていくの」
「俺、母にトキソプラズマの検査ができないか、病院に聞いてみます」
 デイパックを手に、ごちそうさまでした、と和徳は腰を上げる。逸る気持ちを抑えられないのだろう。ただ、まだ事実は何も明らかになっていない。
「友達には、ちゃんと結果が出るまでは秘密にね。ただでさえ、つらい時だから」
「はい。あ、そうだ。連絡先、教えてください」
 思い出したように取り出された携帯に、私も応えて取り出す。更新された最年少の連絡先を確かめて、若い背中を見送った。

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