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「清き祈り」第29話

 診察外の来院に関わらず、院長は変わらぬ笑みで私達を迎えてくれた。受付に必要最小限の灯りを点け、診察室へ私達を招き入れる。
「それで、どうしたの?」
 尋ねた院長に、吉継は不安そうな表情で隣の私を見た。
「精神的に不安定になってしまって。声を荒げたり、自分でも少し制御できない感じがあるので、やっぱりトキソプラズマじゃないかと思って」
 宥めるように吉継の腕をさすりつつ、代わって症状を説明した。院長は頷き、吉継の様子を窺う。
「どんな感じかな。イライラして暴れたくなる? 怖くて暴れたくなる?」
「……怖くて。僕も、死ぬんじゃないかって」
「そうか、それは怖いね。血液検査と点滴をしたら、少し落ち着けるんじゃないかと思うけどどうかな。血液検査は、祈ちゃんがしたのと同じのだよ」
 穏やかな声の提案に、吉継は子供のように頷く。聴診器を手にした院長に、のろのろとコートを脱いだ。
「最近は、どんな仕事をしてるの?」
「投資を、しています」
「投資か。頭のいい人の仕事だねえ。吉継くんは、昔から賢い子だった」
 呼吸の合間に会話をしつつ、院長は一通りの問診を終える。
「でも、僕は政治には向かないから」
 ニットの裾を戻しつつ零した吉継に、驚いて視線を上げた。初めて聞く台詞だ。
「覇気がないし人の上に立つ器じゃないって、父さんに」
「そっか。私は吉継くんみたいな優しい政治家がいてもいいと思うけどね。人の痛みが分かる細やかな政治をしてくれそうだから。でも、優しすぎて周りに潰されちゃうのかもしれないね」
 丁寧に答えながらも、手は迷いのない動きで採血の支度を整える。相変わらず、九十間近とは思えない手さばきだ。
「お父さんは、政治の世界に引き入れてしまったら吉継くんの良さが消えてしまうと思ったんだろう」
「そんな、優しい人じゃないです」
 まあ確かに「そんな優しい人」ではない。どちらかと言わなくても明将と似ている。豪放磊落を装っているが、実は計算高く冷酷な策士だ。あれが来期から県知事になるのかと思うと、正直落ち着かない。県民には好かれるかもしれないが、超過労働で職員の離職率が跳ね上がるだろう。
「あんな人が知事になったら、みんな騙されるよ」
 ダメだよ、と慌ててニットの袖を引く。誰もが知っていても、暗黙の了解として口にしてはならない予定だ。しかし院長は私を宥めるように軽く手を振って、笑った。
「うちの家に、昔チロって犬がいてねえ。お父さんが小学生の頃に『飼ってくれないか』って連れてきた子犬だったんだよ」
 院長は老眼鏡を押し上げ、採血にかかる。初耳のエピソードに、吉継もじっと院長を見据えていた。
「泣きながら、『うちでは飼えないから飼ってもらえませんか。先生の家は医者でお金持ちだから大丈夫だと思う』ってね。自分が飼えないから、飼ってくれる家を探してうちまで来たんだろう。『お金持ちだから泥棒に狙われるかもしれないけど、犬がいたら番犬になる』って売り込んだんだよ。犬もかわいかったけど、その必死さに心を動かされて飼うことにしたんだ。それからも時々チロに会いに来てね。お小遣いをペットフード代にしてくれって持ってきたりして。優しい子だったよ」
 思いがけない心温まる話を聞いているうちに、採血が終わっていた。院長はそのまま針に点滴の輸液を繋ぎ、診察台に吉継を寝かせる。
「ただ、優しいだけでは杼機の家は継げないからね。沢瀉町が豊かでいられるのは、杼機のおかげでもある。私のような住民には、計り知れない苦労を背負っているはずだよ」
 それは多分、間違いないのだ。与えるだけでは、甘やかすだけでは治められない。乗り越えてはならない一線を保持して、杼機は君臨していなければならない。
「政治に触れなくてすむというのは、考え方によっては幸せなことかもしれない。長男に産まれたら、その日から町のために生きる運命を背負わされてしまうわけだから」
 吉継は、輸液の調整をする院長の意見に少し間を置いて頷く。
「兄が僕を嫌ってる理由は、分かります。僕はいつでも自由に、自分の好きなことができたから。でも僕は、両親を独り占めしてる兄が羨ましかった。何をしても、見てもらえて」
「そうだね。それは、寂しかったよね」
 認められた痛みに、目を閉じてまた頷く。しばらくすると、穏やかな寝息が響き始めた。

 食肉衛生検査所が爆発炎上したのは十二月二十三日、水曜日の昼だった。俄に騒がしくなる課内で、私も落ち着かない指でキーを叩いていた。まさかと思いつつも、いやな予感しかしなかった。でもそれなら、トキソプラズマとはまるで関係なくなってしまう。
 心待ちにしていた次の一報が入ったのは夕方頃、検査を終え産廃業者への引き取りを待つ残渣が爆発を起こしたらしいことが分かった。
――なんで残渣爆発させてんだよバカだろ。
 あれは、いつだったか。
 ふと思い出したいつかの会話にモニター画面を見つめていると、杼機、と矢上が呼ぶ。慌てて隣を向くと、受話器を差し出していた。浅黒い肌はくすんでつやがなく、顔色が悪い。少し痩せて、黙り込むことが増えた。祖父の事件は杼機のおかげで広く知れ渡ることはなかったが、水薙町で起きた放火事件はしばらく新聞紙面やワイドショーを賑わせていた。火葬場でぼんやり眺めたテレビには、燃えた家が映っていた。最近は犯人の母親が命を絶ったと、そんな真偽の分からない噂まで流れている。
 愛妻弁当のない昼の机を眺めるのは、隣の私もつらい。でも矢上は私以上に、包帯が巻かれた私の手を見てつらく思っていただろう。傷は塞がり包帯も消えたが、もう以前のようにはなれないのかもしれない。
「副知事から」
 待ち兼ねていた相手に、礼を言って受話器を受け取った。
「お待たせしました、杼機です」
「うん。今日のニュース耳に入ってるか」
 早速切り出した上司に、はい、と答える。ここであまり情報を漏らすのは適切ではないだろう。
「先に検査結果を伝えとくと、あの鹿肉にはトキソプラズマに感染した形跡はなかったそうだ」
「そう、ですか」
 少しの間を置いて答え、長い息を吐く。じゃあ、なんなんだ。何が起きているのだ。
「一つ、気になることがあるらしくてな」
 切り出された本題に、どきりとした。
「あの肉を受け取ったあとから、これまでにない頭数の動物が山から下りてきて敷地をうろつくようになってたらしい。烏も集まってくる異様な雰囲気で、職員達が『地震が来るんじゃないか』と怖がってたとな。まあ偶然かもしれないと言ってたが」
「それは、初耳の状況です。私の方では全く、何も」
 全く予想していなかった状況に戸惑いつつも、まるで関係ないとは思えない。ただ、伝えても混乱させるだけだ。
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
「いや、杼機が謝ることじゃない。気を落とさないでくれ。落ち着かない時に悪かったな」
 少し慌てたようなフォローを経て、通話を終える。また何かあれば頼れ、と懲りずに言ってくれるありがたさが胸に沁みた。
「副知事相手にやらかしたか」
「ちょっとお願いしてたことがあったんですけど、ご迷惑をお掛けしてしまって。凹みますね」
「鋼メンタルがよく言うよ」
 苦笑した私を、矢上は鼻で笑う。これまでにない反応に驚くと、気づいた様子で顔をさすりあげた。
「悪い、刺があったな」
「大丈夫ですよ、気にしないでください。私も刺々しくなる時ありますし」
 心労を抱える身なのは分かっている。誰だって余裕がなければ当たりがきつくなるだろう。責めるつもりは全くない。しかし矢上は、がしゃりと音を立てて腰を上げた。
「許され続けるってのも、つらいもんだぞ」
 私を見ないままぼそりと零して、パーテーションの向こうへ消えた。
 一息ついて、再び受話器を手にする。今は、あの残渣を爆発炎上させた産廃業者を確かめなければならない。
 最近言われるようになった「鋼メンタル」が決して良い意味でないことは、自分が一番よく分かっている。家族が四人も死んでいるのに、たった一週間休んだだけで当たり前のように働いているのだ。篤は警察対応だの保険だの相続だので忙しいのもあるが、休みがちになっているらしい。今は友達の家に転がり込んで、助けてもらいながらどうにか毎日を送っている。
――姉ちゃん、よく普通に生活できるよな。
 苛立ちと蔑みを含んだような口調で叩きつけられたのは、昨日だ。まさか篤にまで言われると思わず唇を噛んだが、言い返さなかった。
 家では、あの日からずっと吉継が寝たきりのようになっている。投資もブログも何もかも放棄して、一日中ベッドの中だ。処方された薬を飲んで落ち着いてはいるが、それでも不安定な言葉を口にすることもある。夜は子供のように私に縋りついて眠る日々だ。私が普通を放棄して泣き暮らせば、吉継は間違いなくもっと崩れる。篤も、私が崩れないと分かっているから言えたのだろう。
 平気なわけはないし、普通に働けているわけもない。多分、誰も分かってはくれない。それでも、今はしなければならないことがある。私の勘が正しければ、二つの事件には繋がりがあるはずだ。
 繋がった生活環境課に「総務課です」と身元をぼかし、今回の一件を引き合いに出して先月に残渣で爆発炎上を起こした産廃業者の件を尋ねた。担当によると、予想どおり先月末の爆発炎上も動物性残渣が原因らしい。ただその産廃業者がどこの動物性残渣を引き受けていたのかまでは、県は把握していなかった。なぜ爆発炎上したのかも、未だ調査中らしい。奇妙な事故が続くもんですね、と呑気に話す担当者に苦笑した。
 次は産廃業者、だが。一番頼れるのは吉継だろうが、今は無理だろう。私が尋ねるのは県職員としても整田としても、おそらく不審がられてしまう。対外的な交渉で県環境部を騙るのは、何かあった時に問題になるから避けたい。町職員の篤なら私より不審がられないが、多分うまく聞き出せないだろう。仕方ない。産廃業者の名前をメモした用紙を手に、腰を上げた。
 和徳に『鹿肉はトキソプラズマ感染の形跡なしでした』と一報を送り、明将に電話をかける。どのみち、こちらにも報告はしておこうと思っていた。
「最近、ほんとよくかけてくるね。愛人になりたいの?」
「こんな思い通りにならない愛人、いやじゃないですか」
「分かってないな。そこを少しずつねじ伏せていくのが」
「本題に入っていいでしょうか」
 性癖の暴露を遮った私に、明将は笑う。促す声にトキソプラズマの結果と今回の爆発、調べてもらいたいことを伝えた。
「私の勘が正しければ、十一月末に爆発炎上を起こした産廃業者は、吉継さんがいつも獲物の処理を頼む加工場が契約していたところのはずです」
 爆発炎上を起こしたのは多分、処分を待っていたあの初物の鹿の残渣だ。
「なるほどな。確かにその勘はいいところを突いてる気はする。ただ」
 明将は納得した様子だったが、一旦言葉を切って唸る。
「そうなってくると、今回の原因はなんなんだ。俺は、眉唾だけどトキソプラズマが落としどころかと思ってたよ」
「私もです。ただ、まだウイルスやバクテリアが人体や環境にどんな影響を与えるのか、全て分かってるわけではありません。トキソプラズマの説さえまだ実験段階ですから。安全だとスルーされたものに、隠された原因があったのかもしれません」
 科学が進めば明らかになる分野に今は眠っている、としか予想できない。
「調べていただいて勘が正しかったところで、釈然としない結果に変わりはありません。金曜日に血液検査の結果は出ますけど、おそらく感染していないか過去の感染でしょうし。でもそれでも、ここでは終われないので。すみませんが、お願いします」
「了解。まあ、篤にはうまいことごまかして聞き出すなんて芸当は無理だろうしね」
 相変わらず一言多いが、それで頼ったわけだし仕方ない。
「二十九日の晩、空けといてくれ。サシで飲みたい」
「分かりました。また連絡を」
 断るには借りがありすぎる誘いを受け、通話を終える。サシで飲み、か。ふとこみ上げた気持ち悪さにトイレへ向かった。
 続く悲劇による衝撃を考えれば当たり前だが、最近胃の調子が悪い。鋼メンタルでも、大丈夫なわけでもない。体は悲鳴を上げ始めている。それでも。
 個室へ滑り込み、突き上げた吐き気に便器へ吐き出す。肩で荒い息を逃しつつ視線を上げると、あの化け物がタンクに止まっていた。今日はふくろう程度の大きさだ。目が合うとにたりと笑い、顔を左右に回す。寄生虫やウイルスが原因なら、このまま死ぬまでこいつらと付き合う可能性もあるのだろう。性格は変わらなくても、気が狂って死ぬかもしれない。
「爆発炎上させたのは、あんた達なの?」
「おくれぇ……や、ま……」
 いつもどおりの片言だったが、聞き慣れない単語があった。体を起こし、口を拭う。山? と聞き返すと、化け物はにたりと笑って消えた。
 山に、おくれ? 「送れ」だったのか。
 山とは多分、鹿峭山だろう。幼い頃に私が迷って前回寺本に沈められかけた滝壺のある、あの山だ。
 水を流し、個室を出て手を洗う。被害者は私や吉継を含めて全員、吉継が仕留めた鹿の肉を食べていた。肉の検査を頼んだ食肉検査場では、おそらくあの鹿肉を含んだ残渣が爆発し炎上。勘が正しければ、十一月末に爆発炎上した産廃業者の残渣にもあの鹿肉が含まれているはず。
 肉を集めているのか。
 思い浮かんだ動機に水を止める。流水で冷え切った手を軽く払い、頬に当てた。じん、と沁みていく冷たさに浮き立つ胸が落ち着いていく。それなら、いつかの幻覚で投げた鹿肉に群がった理由も分かる。奴らの中では、食べても殺せば肉が山へ還ることになるのかもしれない。でもこれまで何十頭と鹿を撃ってきたはずだ。なぜ今回だけ、こんなことが起きているのだろう。
 冷えた肌に一息つき、トイレを出る。洗い桶を抱えて給湯室へ向かう臨職達の姿に、近づく定時を知った。

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