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「清き祈り」第27話

 寺本の訃報が届いたのは、夕飯を食べ終えた頃だった。
 あのあと院へ戻った寺本は意味不明な言葉を発しつつ部屋へこもり、内側から鍵を掛けて閉じこもったらしい。中から聞こえ続ける叫び声に不安になったスタッフ達は、救急車を呼び状況を見守った。しばらくして静かになったものの呼び掛けても応答はなく、結局、救急隊の到着を待ってドアをこじ開け突入した。
 部屋は、血塗れになっていたらしい。血溜まりの中に横たわる寺本の手には鋏が握られていて、体中には刺した痕があった。すぐに病院へ搬送されたが、失血により間もなく死亡した。
――「悪魔が来る、見えないのか」って必死の形相だったので、みんな怖くなってしまって。
 松前は洟を啜りつつ、豹変した寺本の様子と顛末を律儀に報告した。落ち着いたら退職して、次の職場を探すつもりらしい。最後に、もう連絡はしないから自分の連絡先を消して欲しいと願って通話を終えた。正義感で私に協力してしまったことを、後悔したのかもしれない。受け入れて、その場で連絡先を消した。
 吉継の姿は片付けを終えたキッチンではなく、自室にあった。夕食はどちらともなく獣肉を避けて、きつねうどんを二人で啜ったばかりだった。
 小さく呼んだ私に、モニターへ向かっていた吉継は振り向く。数日前、セミナーの状況を尋ねるコメントに参加者側の事情で中止になったような返信をしていた。間違いではないが、引っ掛かる書き方ではあった。もしあの鹿肉によるトキソプラズマ症が原因だと推測できる状況になったら、ちゃんと書き直すのだろうか。
「寺本さんに、連絡してくれてた?」
「してないよ。余計ナーバスになるだけだと思ったから」
 予想はしていたが、どうしようもない。電話をしたところで、どのみち間に合わなかったかもしれない。
「今、院の人から連絡があったよ。亡くなったって。自殺みたい」
 抑えた声で伝えると、吉継は絶句した様子で私を見据える。やがて腰を上げ、私の傍を走り抜ける。青ざめた顔で向かったトイレを覗くと、便器を抱えて吐き続けていた。余程ショックだったのだろう。洗脳が解けたとはいえ、一度は心酔した「理想のメンター」だ。
「トキソプラズマって、どうすれば治るの。次は僕だ!」
 背をさすろうと伸ばした手を弾き、吉継はヒステリックに叫ぶ。そっちだったのか。やっぱり話すのは早すぎたかもしれない。
「落ち着いて。まだトキソプラズマだと」
「よく平気でいられるね。これだけ人が死んでるのに、自分の家族だって死んでるのに!」
 口元を拭い、顔を歪めながら怒鳴るように遮る。別れ際の寺本の表情が重なり、背筋に冷たいものが走った。違う。
 大丈夫、大丈夫なはずだ。少し不安定になっているだけだろう。吉継にはなんの症状も出ていない。守れるはずだ。
「平気じゃないよ。でも今は、泣き暮らすより何が起きたのか事実を確かめる方が先だから。不本意な理由で亡くなったことになってる彼らと家族の名誉を、少しでも」
「やっぱり、先生が正しかったんだよ。祈は悪魔だ。冷酷で、残酷で。僕達と同じ血が通ってるとは思えない。祈がみんなを殺したんだ。次は、僕だろ。僕も殺すつもりなんだろ!」
「そんなことない、落ち着いて!」
 同じ強さで言い返したあと、溜め息をつく。不安と恐怖で、思わず揺らいでしまった。震える手を、忙しなくさする。
「ごめん、怒鳴っちゃって。でも」
 宥める台詞を伝えきる前に、インターフォンが鳴り響く。
「心配なら、休みもらうから一緒にトキソプラズマの検査を受けに行こう。大丈夫だから」
 ね、と親のように宥めたあと、リビングへ戻る。再び鳴り響いた音にモニターをチェックすると、見慣れない顔が二つあった。
 はい、と控えめに答えた私に、彼らは警察だと答えて手帳を見せる。用件を尋ねると、予想どおり寺本の名前を挙げた。
 オートロックを解除して彼らを通し、再びトイレへ戻る。
「吉継、寺本さんの件で警察が来たよ」
 床に座り込み項垂れている吉継に伝えた途端、弾かれたように顔が上がった。
「どうしよう、祈」
「大丈夫だよ、落ち着いて」
 縋るような視線と声を向ける吉継の前にしゃがみこみ、手を伸ばす。久しぶりに触れる頬は、浅く窪んでいた。
「私が話をするから、大丈夫。吉継は、無理に話そうとしなくていいよ」
 子供のように私のニットを握る手が、力を込める。
――お父さんもお母さんもお兄ちゃんのことばっかりで、僕にはなんにもしてくれない。
 息子が産まれない今もいろいろあるだろうが、息子しかいなかった一代前もそれなりにいろいろあった。長男である明将は何においても優先され、次男の吉継は基本的に放置でお手伝いさんが育てたようなものだった。ただ小説や映画でよくある「お手伝いさんが母親のように育ててくれた」わけでもない。吉継が壁にぶち当たったらすぐに辞めていたのも、その先まで根気よく続けさせる、要は忍耐強く親の仕事をしてくれる存在がいなかったからだろう。吉継が時々母親を求めるように縋るのも、多分、求められなかった頃の反動か何かだ。
 小学校の頃は、なかなか家に帰りたがらずベソを掻く吉継を連れて山や川へ寄り道をした。特に何かしたわけでもなかったし周りの目には私が連れ回しているように見えていたらしいが、悲しそうな顔のまま帰しては行けない気がした。
 明将はもちろんだが吉継も深く付き合う友達は幼い頃からコントロールされていて、許された私は産まれた頃から傍に置かれた子供の一人だった。ほかにも女子はいたが、あの一件があっても私が選ばれたのは、おそらくはその献身が目に留まったからだろう。
――祈、大人になったら杼機にお嫁に行こうか。
 父が杼機への嫁入りを口にし始めたのは、小学三年か四年の頃だった。
「ベッドで寝てて。体調不良ってことにするから」
 呼び鈴の音に手を貸して吉継を立ちあがらせ、寝室へ向かわせる。可能かどうかはともかく、会わせないですむならその方がいい。
 寝室へ向かう背を見送ったあと、玄関へ向かった。
 ドアを開けると刑事が二人、律儀に手帳を見せて名乗る。一人は五十過ぎくらいの新山にいやま、もう一人は私と同じか若いくらいの市谷いちたにだった。
 ひとまずドアの内へ招き入れ、いくつか個人情報を答えたあと訪問理由を聞くことにする。吉継の体調不良を告げると、市谷は少し視線を鋭くした。
「寺本さんの訃報は、どなたにお聞きになりましたか」
「先程です。インターフォンで答えた時に、そうお話になったので」
 誰に聞いてきたのか明かされない限り、答えるわけにはいかない。素知らぬ顔で答えた私に、市谷は新山に目配せをした。
「寺本さんの院で働いてる松前さん、ご存知ですか」
「その方が私に伝えたと話したんですか?」
「はい。寺本の詐欺について情報を流していたと聞いています」
「そういうことでしたら、お話します。先程は申し訳ありません。もし彼女が私の名前を伝えていないのなら、出すわけにはいきませんので」
 頭を下げた私に、いえ、と市谷は短く答える。松前が話しているのなら問題はないだろう。改めて、朝岡達の件を除いた事件のあらましを伝えることにした。
「つまりあなたは、寺本の作成したCDで幻覚が起きるようになったと判断して解決を求めたわけですね。しかし寺本が受け入れないのでCDの調査を松前さんの力を借りて行った、と」
 忙しなくメモにペンを走らせつつ、市谷は視線で私を確かめる。
「はい。その結果、詐欺であることが判明しました」
「それを寺本さんへ伝えたのはいつですか」
「今朝ですね。証拠のコピーを差し出して話したら、『サブリミナル効果は自分の能力で八次元から転写したものだから、三次元の機械に読み取れるわけがない』と言われました」
 八次元、と繰り返しつつ市谷は戸惑う表情を浮かべた。そうだろう、私もその気持ちはよく分かる。私も未だに全く分からない。
「私にもよく分かりませんが、かなりスピリチュアルに傾倒している方でしたから。そのあと主人に命じて私を殺そうとしたのですが従わなかったので、自ら手を下そうとしました。滝壺へ沈められそうになったんです。でも胸倉を掴まれたので掴み返したら、それが予想外だったみたいで。最後は『悪魔め!』と叫んで勝手に帰って行きました」
「胸倉、掴み返したんですか」
「はい。殴られたら殴り返そうと思って。あ、もちろん、殴られてないから殴ってません」
 慌てて付け足した私に、市谷は苦笑する。
「滝壺に沈められかけたのが信用できないなら、濡れたブーツがありますが見ますか?」
「いえ。それで、さっき『証拠のコピー』と言われましたけど、原本は今手元にありますか」
「ありません。殺される覚悟でしたので、信用できる相手に預けています。ご迷惑をお掛けしたくないので、名前は伏せます」
 叩けば死ぬほど埃が出る人だが、こんなところで売るつもりはない。市谷はまたメモに書きつけたあと、溜め息をついた。
「詐欺が分かった時点で、なぜ警察に通報しなかったんですか」
「被害金額は三万弱です。この金額なら、本人が返金と謝罪という誠実な対応をすれば良いのではないかと思いました。寺本さんが捕まってしまえば、従業員に影響が出ます。それは避けるべきと考えたので」
 そんなことは考えず、通報するべきだったのか。でもトキソプラズマが原因なら遅かれ早かれこうなっていたかもしれない。
「寺本さんの亡くなり方は、ご存知ですか」
 今度は、新山が口を開く。ゆったりとした、余裕のある口調だった。
「鋏で全身を刺したと、伺いました」
「『悪魔が来る』と部屋にこもって全身を五十箇所以上、腹や腕だけじゃなく両目や頬にも刺してるんです。自殺としても、ちょっと異様だと思いませんか。まるで無数の鳥が啄んだようなご遺体でしたよ」
 鳥が、啄んだ。当然のように脳裏に浮かんだ群れに、顔をさすりあげる。

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