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「清き祈り」第22話

 私の方ですべきことは二つ、自分の血液検査と鹿肉の検査だ。猪も鹿も兎も食べている私の血液検査だけでは、あの鹿肉で罹ったとは言い切れない。まあ両者が揃っても言い切れるわけではないが、片方だけより可能性は跳ね上がる。
 トキソプラズマ症の血液検査を疑われずにするとしたら、感染症内科か。すぐに検索してみると、田舎だけあって科としてあるのは総合病院に二軒のみだけだった。しかも近隣ではないし、どのみち総合病院は救急でもなければ今は紹介制になっている。
 ふと気づいて、子供の頃に世話になった沢瀉町の掛かりつけ医を探す。内科と小児科が一緒になった、古い医院だ。院長はもうかなりの老齢だが、山で罹る病気には精通しているはずだ。
 未だホームページすらない病院の電話番号を確かめ、早速かける。呼び出し音は数度鳴ったあと、張りのある女性の声に変わった。
 名前を伏せたまま体調不良と二週間ほど前に鹿肉を食べたことを伝え、トキソプラズマ検査ができないかを尋ねる。女性はあっさり「できますよ」と即答した。これから行くことを伝え、かつて小児科で世話になった「整田祈」だと伝えると、ああ、と少し間が置かれる。お気をつけておいでくださいね、と心なしかゆっくりと優しくなった声に礼を言って、通話を終えた。
 肉の方はもう、県で築いた人脈に頼るしかない。昨年まで総務部長を務めていた上司は、かつて人事課で私に仕事のイロハを叩き込んでくれた人事畑の人だ。今年から副知事になった、生え抜きのエリートでもある。仕事には厳しいが情の厚い人で、今も時々飲みに行く仲だ。今回も我が家の訃報を知ってすぐ、できることはないかとメールをくれた。
 甘えてしまうが、頼るしかない。
 病院へ向かう支度をしつつ、上司へ用件のみの短いメールを送る。コートを羽織り、再び沢瀉町へと向かった。

 院長は、久しぶりの私を見るなり「大きくなったねえ」と顔中の皺を深くして迎えた。三十過ぎて「大きくなった」は微妙だが、九十近い院長から見れば子供に毛が生えた程度なのだろう。
「それで、早速なんですけど」
「うん、トキソプラズマ検査ね。ちょくちょくあるからね、熱が出た?」
 聴診器を手に、院長は丸椅子を私へ近づける。持ち上げたニットの下へ聴診器を突っ込んだ。
「微熱と、体の怠さや筋肉痛があって。筋肉痛になるような覚えはないけど、そういえば狩猟解禁で鹿肉食べたなと」
「吉継くんは腕がいいらしいねえ」
 はい、と答えて後ろを向く。騙すようで申し訳ないが、実際には申告したような症状はない。もし感染していたとしても、私は無症状だ。無症状なら、特に治療は行われない。
「うん、大丈夫だね。リンパはどうかな」
 院長は聴診器を外し、再び向き直った私の首元に触れて頷く。指先は細く枯れているが、少しの震えもなかった。
「ちょっと腫れはあるけど、祈ちゃんは疲れが溜まるとよく腫れてたからね。じゃあ、血液検査をしよう」
 頷いたあと、背後の看護師に指示を出す。今日は患者が少なめだからか、院長自ら採血してくれるらしい。
「あの、余談なんですけど『トキソプラズマ感染で人の性格が変わる』って、聞いたことあります?」
「うん、あるよ。まあわしら古い人間は今更って感じだけどなあ」
「今更、ですか」
 あっさり認める以上の答えに、戸惑いつつ尋ねる。院長は薄くなった白髪頭を頷かせながら、白衣の袖をまくり上げた。
「昔、この辺では『性根の弱い子に獣の生肉を食わすと強くなる』って言われててね。泣き虫や怖がりの男の子に儀式的に生肉を食わせる慣習があったんだよ。もちろん熱が出たり腹痛を訴えたりする子もいるんだけど、気性が荒くなる子もいた。当時は『山の主に気に入られた子』だと言われてたな。でも公衆衛生が発達して生食が危険って分かってから、廃れていってね。医学の勉強を始めて、あれは寄生虫か何かの悪さだろうなと腑に落ちたよ」
「そんなことがあったんですね」
「うん。祈ちゃんのおじいさんも、確か食べさせられてたよ。昔は泣き虫だったからなあ」
 戻ってきた看護師から一式を受け取り、アルコールで手指を消毒する。
 祖父が、そうだったのか。もちろん初耳だ。
「いいおじいさん、ご家族だったね」
 好々爺の笑みで語る院長に、唇を噛んで頭を下げる。初めて溢れそうになった涙を堪え、腕を差し出した。

 結果は一週間後、陽性ならいつ頃感染したのかも分かるらしい。自分の方は、ひとまず目処が立った。
 『何が必要だ』『鹿肉をトキソプラズマ検査してくれる場所を紹介してください』『理由は』『我が家の事件を引き起こした可能性を確かめておきたいんです。警察を通すと杼機にバレます』『了解。10分待て』『ありがとうございます。よろしくお願いします』
 持つべきものは信頼できる上司だ。おそらく融通をつけてくれる先は県の家畜衛生保健所か、大学の農学部だろう。どちらにしても、個人が突然持ち込んで受け入れてくれるような場ではない。あの頃、しごきに耐えておいて良かった。
 携帯を手に挟んで拝んだあと、鹿肉の残りを確かめに冷凍庫へ向かう。今年の初物となった鹿は、十一月二十二日に仕留めたものだ。全てはこの。
「いのぉりぃぃ……」
 久しぶりの声にびくりとして、おそるおそる振り向く。そこにいたのは、あの黒い化け物達だった。今日は私と同じほどの背丈まで伸びているが、一体だけではない。重なり合って、十体近くいる。相変わらずくるくるとよく回る顔には、目を背けたくなるものが貼りつけられていた。寺本の施術で襲われた幻覚と同じ、引き剥がされた顔の皮だ。頭が動く度に歪む皮は、笑っているようにも苦しんでいるようにも見える。両親と祖母、朝岡……分からない顔は、水薙町の放火で亡くなった女性か。
 呪いとしたら、なんの呪いなのか。化け物達があの時の奴らだとして、何を呪っているのか。
 後ずさる私に呼応するように、黒々とした足がじわりと近づく。
「どうしてなの、どうして私に憑いてるの。何を呪ってるの?」
 これまでの経験で話ができないのは分かっているが、このまま殺されるのはやり切れない。殺されるのならせめて、何か一つだけでも明らかにしてからだ。
「おくれぇぇぇ」「おくれぇぇぇ」
 重なり合う声は私の名前とそれだけだ。だめだ、やはり通じない。理性はほぼないのかもしれない。私の本能が生み出している幻覚なら、さもありなんだが。
 一様に手を伸ばしにじり寄ってくる群れに、あとずさる。ちらりと作業台を眺めるが、きれいに片付けていて投げつけられるようなものはなかった。それに、投げつけたところで向こうの数が多すぎる。反撃されたら、終わりだ。
 もう一歩下がろうとした足が、冷凍庫を見つける。ふと脳裏をよぎった考えに、振り向かないまま冷凍庫を開けた。
 鹿肉を食べたせいでおかしくなっているのなら、何か反応するだろうか。
 とりあえず掴んで持ち上げた鹿肉に、化け物は一斉に翼を広げてけたたましい鳴き声を響かせる。これまでにない反応に恐怖を感じた瞬間、足が竦んでしまった。動けない。肉を投げればいいのに、肉を掴んだ手は震えてまるで言うことを聞かなかった。
 動け……動け!
 かつかつと爪音を立てて迫る群れに、ようやく腕が動き始める。しかし肉を放り投げるより早く、一体が腕にとまった。以前は肩だったが、今日は腕に爪が食い込んでいく。母の顔を貼りつけた化け物は覆い被さるように体を折り曲げて、私の間近で頭を回した。
「どうして、お母さんを」
「おかあさん」
 はっきり返された声に、戦慄が走る。あの時の、化け物か。見上げた私に化け物はにたりと笑い、手を伸ばす。いのりぃ、と掠れた声が私を呼んだ。私に取り憑いていたのは、こいつなのか。
 近づく手を弾き、持ち直した肉を群れに向かって投げる。途端、化け物達は勢いよく肉へ向かった。腕に乗っていた化け物も、すぐに群れの方へと飛び込んでいく。真っ黒な、塊だ。
 不意に鳴り響いた携帯の音に、意識が揺れる。気づくと、携帯を手に突っ立っていた。冷凍庫は、まだ向こうにある。当然化け物も、投げた鹿肉もない。また幻覚、か。
 顔をさすりつつ、思い出して着信に応える。相手は上司だった。
 通話しつつ確かめた時計は二時十五分。まだ十分は経っていないが、確実に時間は流れている。呪いか、トキソプラズマか。検査をすれば明らかになる。
 あの鹿肉を食べて異常が起きていないのは、もう吉継だけだ。私がこれほど幻覚に襲われているのに吉継に何もないのは、既にトキソプラズマに感染しているからではないだろうか。それも、やがて明らかになるだろう。

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