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「清き祈り」第30話

 明将が携帯を鳴らしたのは、コンビニでプリンを選んでいる時だった。吉継へ夕飯に食べたいものを尋ねたら、プリンと返ってきた。もちろんこれだけではダメだから、鍋焼きうどんでも作って食べさせる。自分用には栄養ドリンクを数本、矢上が推薦してくれたものを選んだ。
「頼まれてたこと調べたけど、祈の勘は当たってた。確かにその産廃業者と契約してたらしい」
「やっぱり。ありがとうございます」
 予想どおりの結果に、ひとまずの安堵をする。やっぱり「肉を集めている」のだろう。寄生虫より遥かに非現実的な解釈だが、そう考えると奴らの行動にも合点がいく。
「ただ、ちょっと気になることを聞いた。俺は全く以てオカルトの類は信じない性質だけど、聞いた瞬間いやな感じがしてね。もしかしたら、吉継がやらかしたかもしれない」
「なんですか」
 溜め息交じりに切り出した明将に、カゴを握り直して列に並ぶ。伝えられた所業に、言葉を失った。

 『連絡、ありがとうございます。肉は感染してなかったんですね。母も今調べてもらってますが、どうなるんでしょうか…』『私も結果待ちで不安です。ただ矢上さんは症状に合った適切な治療を受けられていると思うので、回復に向かわれると信じています』
 不安げな和徳に当たり障りのないメッセージを返し、ドアを開ける。真っ暗な中の灯りを点けつつ、寝室を目指した。
「吉継、ただいま」
 声を掛けながら、照明のスイッチを押す。こんもりと盛り上がっていたベッドの塊が蠢いて、吉継が顔を出した。おかえり、と弱々しい声で返す無精髭の顔に頷き、傍へ向かった。
「一つ聞きたいことがあるんだけど」
 ベッド際にしゃがみこみ、横たわる吉継と視線を合わす。吉継は力のない視線を少し怯えたように揺らしつつ、頷いた。
「今年初物の鹿、どんな鹿だったの?」
 尋ねた私を、吉継はじっと見据える。
「誰に、聞いたの?」
「明将さんに。産廃業者の件で、少し加工場に問い合わせをしてもらったの。その時に聞いたって」
 明将の名前を出した私に眉を顰めたあと溜め息をつき、黙って体を起こす。ベッドの反対側から下りると、そのままウォークインクローゼットの中へ入って行く。少しの物音がして、吉継は大きなダンボールと共に姿を現した。不意に、どくりと大きく打った胸が痛む。胸を押さえて深呼吸をした。
「本当は明日か明後日、クリスマスプレゼントにしようと思ってた」
 そんな、悠長なことを言っている場合ではない。吉継は、本当に何も知らないのだろうか。ダンボールへ駆け寄り、ガムテープを剥ぎ取る。大きく開くと、薬品臭さに混じり獣の臭いが立ちのぼった。
「……なんて、ことを」
 座り込んで震える手を伸ばし、梱包材に包まれたものをいくつか取り出す。本来は全て一つだったものだ。一つを手に取り、傷めないように梱包材を外していく。しばらくして現れたのは、立派な牡鹿の角だった。でも、普通の鹿の角ではない。
「きれいだったし、祈が山の中で迷った時、白い光が助けてくれたって言ってたでしょ。だから」
「だから撃ったの? 私が喜ぶと思って?」
 思わずきつく返した言葉に吉継は俯く。もう一つ開いた梱包材の中からもう片方の角を取り出して、並べた。いくつも枝分かれした白い角を撫で、視線を落とす。
 白い光だったのは覚えているが、あれが鹿だったかどうかは分からないし、どう出会ったのかも記憶にはない。白い光を見た次には、私を呼ぶ誰かの声が聞こえた。
 一息ついて残された二つのうち、畳まれた薄っぺらい一つを手に取る。梱包材を開かなくても分かる白い毛皮に、知らず涙が溢れた。
「どうして、こんなこと」
「茶色かろうと白かろうと、鹿は害獣だ。同じように撃って何が悪いの」
 文句しか言わない私に気を悪くしたのだろう。吉継は私を見下ろし、吐き捨てるように言う。
「撃ちすぎだって、いつも」
「色は関係ないでしょ。どんな色でも鹿は鹿だ。白い鹿なら若木や農作物を食べないわけじゃない」
 ハンターの主張を続ける吉継が、反省を口にすることはないのだろう。涙を拭って梱包材から取り出し、白い毛皮の流れを撫でる。
――祈のクリスマスプレゼントにするって、仕留めた白い鹿の頭を剥製に、毛皮を敷物にするように頼んだらしい。
 最後の、一際大きな包みを手に取り、洟を啜りつつそっと開く。中にあったのは神々しく輝く毛並みの、白鹿の頭だった。
 どうして、こんな姿に。
 堪えきれず、抱き締めて泣く。何が起きたのかまるで分からないのに、悲しくて仕方がない。家族の葬式ですら耐えられた涙が、溢れ出して止まらなかった。
「返してこなきゃ」
「何言ってるの?」
 洟を啜りつつ返還を決めた私に、吉継は苛立ったような声を出す。
「吉継は、杼機に伝わる約束を聞いたことなかったの? 山の主のこと」
「知らない。聞いたとしても、忘れたよ」
 ふい、と横を向いた吉継に視線を落とす。明将曰く「杼機が現在のように力を持つ家になったのは、かつて山の主である白鹿と盟約を結んだから」だそうだ。町には全く流れていない、初めて聞く話だった。
――加護を与える代わりに山が冒涜されないように守れって、先祖が言われたらしいよ。金脈はその時に与えられたものらしい。
 尤も、明将もまるで信じていない様子だった。何百年前かも分からないし口伝だから信憑性がない、と苦笑していた。
「この鹿は、山の主だよ。今回の事件は全部、主が亡くなったから起きたんだよ」
「僕のせいだっていうの? 僕はただ害獣を撃っただけだ!」
 耳に突き刺さる声に溜め息をつき、額をさすりあげる。ここ最近の吉継はまるで子供と変わらない。日に日に幼くなって、手に負えなくなっていく。
「これは、ここにあるべきものじゃない。山へ返さないと」
「本気で言ってるの? 僕がせっかく」
「ごめんね。でもこれだけは、受け取れない」
 再び梱包材でそっと包み直してダンボールへ詰めていく。あとは、肉も。あれはただの鹿の肉ではない。加護のない人間が口にして、まともでいられるわけがなかったのだ。
「僕は、行かないよ」
「分かってる。一人で行ってくるよ」
 腰を上げ、ダンボールを抱えてリビングへ出る。
「ねえ、本気で言ってるの? 昔迷った、あの山なんだよ」
「分かってるよ。それでも行く」
 キッチンへ向かい、冷凍庫から取り出した肉を何重かに梱包してダンボールへ詰めた。もう、これでいいだろう。
「ごめん、エコバックの中にプリンとか適当に入ってるから、好きに食べて」
「祈」
 ダンボールとともに外へ向かおうとする私を、吉継が呼ぶ。体を起こして振り向くと、睨みつけていた表情がふと不安げに揺らぐ。
「行かないでよ。僕を、守ってくれるんじゃなかったの」
 泣きそうな声で訴えるパジャマ姿の吉継に、視線を落とす。親が二人いれば、父親が返しに行って母親が抱き締める作業分担ができるのだろう。でも私は妻だし、分裂もできない。
「守るよ。だから返しに行くの。もう、ほかに方法がない」
 少し重みを増したダンボールを再び抱え、玄関へ向かった。今ならまだ、間に合うかもしれない。吉継はもちろん、佳代子もまだ苦しんでいる。余波で事件が起きないとも限らない。これ以上の被害を防ぐ方が先だ。
 山の主が白鹿なのは知らなかったが、存在だけは祖父に聞いたことがある。といっても祖父の信仰はアニミズムのような、自然に対する畏敬の念のようなものだった。祖父がたとえ害獣であっても獣を狩り過ぎなかったのは、それに基づくものだろう。
――山のものは山のものだ。人は常に恵みを受けていることを忘れてはならん。
 朝晩山へ向かい手を合わす祖父に倣って、私も隣でよく拝んだ。私を迷わせた山は恐ろしかったが、救ってくれたのも山だ。早朝の、霧立ちのぼらせる青々とした山の姿は、幼心にも神聖さを感じさせるものだった。
 車の後部座席を倒し、トランクにダンボールを載せる。ドアを閉めて振り向くと、あの化け物の群れがいた。思わず身を引いたが、今はその理由が分かっている。
「ごめんなさい。これから山へ返しに行くから」
 大人しく首を回す彼らに、取り返そうと襲い来る様子はない。その気になれば産廃業者のように剥製工房も襲って取り返せそうなものだが、毛皮には触れられなかったのかもしれない。
 車に乗り込んでエンジンを掛け、バックミラーの角度を調節する。
――行かないでよ。僕を、守ってくれるんじゃなかったの。
 情けない姿を思い出せば、視線が落ちる。吉継の心情を考えれば、最終的に山へ返すにしてもさっきは抱き締めて落ち着かせ、プリンと夕食を食べさせて寝かしつけるのが最適解だったのだろう。何よりも自分を優先させてくれるものを、幼い頃に得られなかったものを求めているのは分かっている。でも私は、選ばなかった。
 吉継はもう、私を受け入れてくれないかもしれない。
 ミラー越しに出発を待つ群れを確かめ、車を出した。

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