SNS時代の既製品思想
思想が世の中を少しずつでも前進させることにとても重要な動力源であるということは心から信じている。しかしその一方で思想とは、それをもってすれば簡単に世の中を「理解し、切る」快感を味わうことができるものでもある。そしてそのとても出来のよい既製品が、例えばtwitterのような場所に無料でゴロゴロ転がっている。
その既製品をいくつか見比べて、著名人の「いいね」がついているものを信頼し、手に取って使ってみる。その振る舞いの商品経済との相似はただの笑い話に過ぎないとして、しかしその既製品の善であることを信じて疑わずに世の中をバサバサ切って影響力を振るっていくとなると話は不穏になる。
既製品の思想にも、それが生まれてきた背景には幾多の葛藤や、現実的な有用性を優先して留保したままになっている課題、有効範囲が限定的であるものがごまんとあるのだ。拾い物の思想をそのまま振るう行為には、それら背景への想像も検証もなく、それゆえ一面的で暴力的である。しかし「一面的=わかりやすい」、「暴力的=パワフルで有効に見える」がゆえにSNSとの相性がとにかく良いものだから「いいね」がついて評価される。
twitterを流れる既製品思想のCMと活用レポートを目にするたび、本来世の中を前進させるはずのそれらが新しい暴力を無自覚に生み、結局のところ多少の波の上げ下げにしか過ぎないことに暗澹たる気持ちになる。テクノロジーがいかに進歩しようとも、社会全体で見た成熟度はさほど変わることがないのだと。