呼吸

この街に越してきて、4年が経とうとしている。

車に乗って東へ450km、行きはほとんど母が運転した。わたしの母はかなりタフなので長距離運転もこなれている。途中のサービスエリアで家族は温泉へ。わたしは疲れていると言って車内に残った。本当は目の前まで迫っている新しい生活への期待が膨らみすぎてハレツしそうで、温泉に入っている場合ではなかった。

わたしを半日かけて東京まで送り届けてくれた家族は、みんなすこし仮眠しただけで、あっさり西へ帰って行ってしまった。自分が娘を東京まで送り届けると言いだしたのに、行きはほとんど母任せにしてしまったことを反省したのか帰りは父が運転したらしい。(父は眠くなるので長距離はあまり得意ではない、でも運転はうまい。)途中心配になったけど、コーヒー飲んで頑張ってはったわと電話口で母が褒めていた。両親はバランスのいい夫婦だと思う。

本屋さんも写真屋さんもあって、静かでいい街そうやな。スーパーにリプトン置いてないのはあれやけど。ドトールでカフェオレを飲みながらそうコメントしていた母は、野菜やお米の送ってくれる時に大体リプトンも一緒に入れてくれる。いつもの味は安心するやろって。


あれから4年、本屋も写真屋も無くなった。4年のうち半分はパンデミックに日常を乗っ取られてしまった。わたしはいまドトールにいる。仕事が変わっても、関わる人が変わっても、良い朝を迎えた時も、上司に怒りをぶつけた時も、変わらないカフェオレの味に安心する。正常に呼吸できるようになる、いつもの味だ。

終わりのみえないパンデミック、生まれる流行語、ドラッグストアに群がるハイエナのような人たち、生き残るために必死だよね、ここはサバンナ。恥じらいは余裕の上に生まれるもの。

安心をくれるドトールは残された日常だと思っています。非日常ばかりを求めていた以前のわたしたちはどこへ行ってしまったのでしょうか。新しい日常に戸惑いや生きづらさは感じるけど、日常が特別だったことに気づくきっかけになってよかったのだといまは思います。そう思いませんか?世の中それに気がついている人がどれだけいるのかはわからないけれど。

朝の光が水分を多く含んでいることは、新しい日常になってから知りました。教えてもらった光の中を、漂うように歩いてみたいものですね。





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