ちゃっかり、勉強する。
先日、「ドカ弁先生」で書いたが、次女(通称ちゃっかり)の夏休み算数教室の途中経過を書こうと思う。
一昨日から始まった「夏休み算数教室」であるが、午後14時~15時30分まで小学校に行き、算数の理解が足りていない部分を先生に教えてもらっているのである。
13時40分くらいになるとそわそわ落ち着かない様子のちゃっかり。
「ちゃっかり、あと5分したら出るよ!トイレ行った?」
「うん!もう5回行った!」
こんな調子で緊張している様子であるが、小学校の門まで送っていくと
「ありがとう。行ってきます!」
車から降りると背筋をピンと伸ばし、早足に学校の中に入っていくちゃっかり。その後ろ姿が小さくなるまで見送るのだが、親としてはその背中を見送るのがちょっぴり切ないのだ。
夏休みの小学校はがらんとしていて、子どもたちのはしゃぐ声は聞こえない。
そんな静かな暑い夏の午後、「算数教室」に該当した子どもたちがちらほらポツポツとやってくる姿だけが目に止まる。
どの子も元気溌剌って表情ではない。どこか元気がなく、それでも懸命に歯を食いしばって学校に勉強しに来ているのがわかる。
友達同士、顔なじみ同士が出くわしてもそそくさと早足に歩いていくのだ。
「やー!暑いなー!元気!?」
などと挨拶を交わす心境ではないのだろうと思う。
皆、不得意な算数を大人に指摘され、自信を失っているのだろうから、各々の自尊心は粉々になっているのだろう。その小さな胸を痛めているのがわかる。
大人になるまでにこうした回り道をした経験が、のちに味のある、人の痛みもわかる人間に成長していくのかもしれないが、子どものうちに受けるこの小さな傷がその子の劣等感に繋がらないように大人がきちんとケアしてやらないといけないなと今回はつくづく感じている。
先日、懇談で担任の先生に訊ねてみた。
「先生、ちゃっかりの算数はどのあたりがダメなんでしょう。やはり図形のあたりですか?」
「そうですねー。計算はよくできてるんですよ。図形の体積の問題あたりと、文章問題の途中式が抜けてる部分のようです。」
「そうですか。文章問題の途中式とは?」
「4×(2+3)を4(2+3)のように纏める途中式を書けてないようです。」
「先生、それでは計算は出来てるんですね?」
「はい、計算は問題ないようです。」
「そうでしたか。いや、算数教室に呼ばれたことで本人が結構落ちこんでるようなので、どのあたりがダメなのかを聞きたかったのです。」
「そうですねー。算数教室は計算が本当に苦手な子が対象になっているので、ちゃっかりさんは大丈夫ですよ。」
え?計算が本当に苦手な子って掛け算割り算が怪しい感じの子がメインで該当しているってことなんか?
ここすごく重要な気がしてきた。
そして、先生のこの報告のような口調にも違和感を感じていたのである。
「問題ないようです。」
算数は5年生から算数専門の教科担任制になっていて、担任の先生に教えてもらうのではないのだが、まだ小学生である。担任の先生は子どもたちにとってはお母さん、お父さんのように慕う存在なのだ。
ドカ弁が5年生だったときは、教科担任と担任の先生が半々で授業を見てくれていたので、こういった「〇〇のようです。」という他の担当教師の評価を報告口調でお話されたのは初めての体験である。
「それでは先生、どうぞ3日間お世話をおかけしますがよろしくご指導ください。」
こう言うと先生はどう答えられたか。
「あぁ、私はちゃっかりさんの担当ではないんです。私が教えるわけではなく、全職員で担当を決めて教えるのでね。」
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