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正しく愛する

とても若かった頃。

その方はとても優しく穏やかな語彙をたくさん持っており、ていねいに言葉を紡ぐ人で、私はそんなところに惹かれ、親交を深めていった。尊敬できる所、自分にないものをたくさん持っていて、盲目的にその方を信じた。

その方のことを悪く言う人はいなかった。心優しい穏やかな人。それがその方のみんなの印象だった。

しかし仲良くなればなるほど、人格を否定するような心のない言葉を投げ掛けてくるようになった。その方が自分の思い通りにならない時、考え方が異なるとき、それは起こった。私は、責められると自分がすべて悪いのではないかという気持ちになった。なぜならその方は素晴らしくて完璧な存在だから。

その方は、上手に仮面を被っていて周囲はそんな一面を知る由もなかった。心を許した私にだけ、牙を向くようになった。人格否定の言葉を投げ掛けられてる時、いつも見れない恐ろしい目で私を見る時、私は自分しか知らないこの人を知っているという優越感でぞくぞくした。

いつもは、真綿に触れるかのように優しくするのに、怒りのスイッチが入ったときだけ、けもののように私を抱いた。自分がただのメスになる解放感を知った。それもまた麻薬の様だった。

洗脳が少しずつ解け、二人は離れたが、もし続いていたとしても行き着く先は地獄だった気がする。この手の人って、自分への怒りが強く、自分の満たされなさを近く弱い立場の人にぶつける傾向がある。私は暴力こそなかったが、世の中のDVはまさにその典型だ。その間柄が男女間になってくると余計ややこしくなる。

ターゲットにされるのも、自分への怒りが強く自信がない人、弱い人だ。その方も私もそんな一人だったということ。自分を許し、自分への怒りを鎮め、自分を愛せるようにならないと相手も正しく愛せない。





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