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「グレイヘア」と女性性のさじ加減

先日朝、ビビットを何気なく見ていたら、今流行ってると言われているグレイヘアについて特集をしていた。アナウンサーの近藤サトさんが、白髪染めをやめ、ありのままの髪の色を楽しむ女性の一人として紹介されていた。

第一印象としては、正直とてもショックだった。私は、やはり、グレイヘアの彼女に少し老けた印象を持ってしまったのである。

近藤サトさんと言えば、丸顔童顔、妖艶、知的で落ち着きのある雰囲気で、その女性性を隠そうとするも、隠しきれず溢れてしまっているような方だった。

もちろん、サトさんの美貌や知性、女性性はそのままである。よく見ると肌つやは20代とも思えるほどの光を放っているので、逆にグレイヘアの方に違和感を感じるくらいなのである。

彼女は、グレイヘアにするきっかけとして、東日本大震災がきっかけとなったと話していた。非常用袋の中身を確認する際、生死がかかっているこんな時に白髪染めのストックを気にしている自分に対し疑問を抱いたとのこと。3週間に一度されてたということなので、白髪染めの習慣が、ご自身を少し窮屈にしていたのかもしれない。

黒髪への執着は若さへの執着とも思われがちだが、私が思うには近藤サトさんは若さに執着していたわけでもないと思った。

サトさんの美貌は、たぶんどんなに歳を重ねておばあさんになっても"女性"としてのサトさんを全面に押し出してしまう。サトさんの美しさの記憶は、サトさんがおばさんになることを許さないのだ。私がグレイヘアのサトさんを見た時にショックを受けたのはいい例である。

一人の「人間」という前に「女」が前にくる。人間として自然の流れである「老けていくこと」が許されないって、とても酷な事で、それってちょっと生きにくいんじゃないかなと思ったりもする。

例えとして適切かどうかわからないけど、友達だと思って信頼していた男性が自分を女として見てた事がわかった時の失望感。これを味わいたくない感じ。あーまた友人を失うのかという気持ち。男とか女とかそういうことでなくて、humanbeingとして付き合いたいのに、自分の女性性が邪魔をする。

サトさんは、そういう人生を歩んできて若干めんどくさくなったのかな?とか勝手に推察してみた。

自ら「老い」=「人間らしさ」みたいなものを出していくことで、「女」を「人間」の後ろに持っていく感じ。決して「女」をやめたわけではない。だから、メイクはちゃんとしてる、肌もピカピカに磨いて輝いてる。

また「女」であることが、歳を重ねると少し手間も掛かってくる。ちょっと楽になりたかったのかな、と。髪部門をありのままにすることとで人工的な若さを減らす。すると、「女」の後ろに隠れてた「人間」が前に出てくる。

「女」である前に、「人間」よって言いたくなったのかも。でも女性性は残す。それが、他のグレイヘアにした女性達のコメントに多くあったような、「ありのままの自分になりたかった」という「ありのまま」のさじ加減なんだと思う。



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