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最後に話した日〜「変装」の勘三郎。

勘三郎さんの正式な舞台出演は2012年5月の平成中村座が最後。その後、食道がんの治療中、手術前にまつもと市民芸術館での「コクーン歌舞伎 天日坊」千穐楽にサプライズで登場したのが本当の意味での「最後の舞台」だった。

誰もそんなこと、予想はしていなかったけれど。帰ってくるとみんな信じてた。

食道がんの公表から半年しか時間はなかったので、その間に中村屋に逢えた人はごく身近な方々以外は少なかったと思う。私の場合は幸運にも一度だけ逢えている。
それぞれの胸に勘三郎さんと最後に話した日の記憶はあると思うが、私のそれは「2012年6月30日」のことだった。

シアターコクーンでの「コクーン歌舞伎 天日坊」上演中。
初日から何度か見てはいたが、その頃、手術を前にした勘三郎さんに届けるための千羽鶴をせっせと作っている真っ最中で、観劇日程を追加する余裕がなかった。
やってみて初めて知ったが、千羽鶴というのは実に作るのが大変だ。Twitterで募集した有志の方々…25名はいたろうか、皆で分担して作っていたので二週間ほどでできあがったのだが、それを繋げたり経緯を中村屋に伝えるための資料をまとめたりもしていたので、不眠不休…とまでは行かないが寝不足の毎日だった。

それが終わる目処が立ったその日、当日券で見よう!と思い立ち、夜の部のために15時過ぎから並び始めた。2番目だったと記憶している。
ふと劇場入口を見やると、好江さんがロビーから出ていらした。ああ、見に来てらしたんだ…と思うその視線に気づいてか、好江さんがこちらを見、お互いに軽く会釈をした。好江さんが好きな私としてはそれだけで嬉しい気持ちになりながら読みかけていた本に目を戻す。

しばらくして昼の部、終演。
ロビーから人が一斉に出てきて辺りがザワザワとする。喧騒が当日券のために並ぶ私達の前を通り過ぎ、やがてまたしん、と静寂が帰ってきた。

すると不意に後ろから聞き覚えのある声が私を呼んでいた。中村屋のマネージャーさんだった。
わあー!お久しぶりですー!とこれまた彼が大好きな私、テンションが上がる。彼に会うのは初日以来だった。
いつも困ったように下がり気味の彼の眉毛がさらに下がっている。どうしたのかと思ったら「あの…ちょっといいですか?」と私を手招きしている。

? なんだろう? 聴かれたらいけないような話なのかな?

躊躇っていると前の方が、荷物見てますよ、どうぞ、と言ってくれたので、御礼を言いながらマネージャーの呼ぶ方へてくてくと歩く。

シアターコクーンの入口に向かって右手、東急百貨店に繋がる方に行くと階段がある。マネージャーはそこに立ってニコニコしながらその階段の上の方を指し示した。

なんだ?と彼の示す先を見上げると、そこには知らないおじさんが立っていた。

…と、思った、コンマ0.5秒後ぐらいに

あっ!勘三郎さん!!

と理解した。
途端に腰が抜けて、ストン!と膝から崩れて床に座りこんでしまった。そのまましばし正座。

人間って、驚くと本当に腰が抜けるんだなあ…と思った。
人生で一番、驚いた瞬間だと思う。心臓がバクバクする。

勘三郎さんとマネージャーさんはそんな私を見て大きな声で笑った。
絶対あの声で当日券に並んでいた皆さんにも中村屋がいるってバレたと思う。誰も言わなかったし覗きもしなかったけれど。

なぜ一瞬、知らないおじさんだと思ったかというと、勘三郎さんは「変装」していたのだ。

白いポロシャツ、白い短パン。大きな黒縁の眼鏡(十七代目の眼鏡のような)に青い帽子。顎から口の周りからぼうぼうに髭。なんだか談志師匠のようにも見えた。ちなみに、付け髭だった(このあたりでやっと冷静になって「なぜこんなおっさんくさい格好を…」と心の中で突っ込む余裕もできた)。

よろよろ立ち上がってまじまじと顔を見ながら、どうしたんですかぁ…と言うと、ちょっと照れたように「今、二列目で見てたのよ! いやぁ(天日坊を)また見たくなっちゃって。でも癌だってのにさ、フラフラしてたらよくないかな、と思って、で(髭を触りながら)。誰も気づかなかったよ!」

にっかにかの嬉しそうな顔。
だからって変装するかぁ~?…と、今なら思うけれど、このときはとにかく現実味がないまま、ふわふわと話を聴いていた。


「…あの…どうなんですか…?」

もちろん、癌のことだが、主語を明確にはできなかった。

気づいたら無意識に勘三郎さんの腕を触っていた。
ひんやりとした皮膚の感触。あ、本物だ…。

「どうもこうもねぇ…」

苦笑しながら、ありのまま、本当にありのままの、報道とも流れてくる噂とも違う「現状」を話してくれた。実際に本人の言葉で聴いたら一瞬、眩暈がした。

何を言っていいかわからず、もにょもにょと、すごく進行の速い、怖い癌だとは聴いていて心配してて…と言うと、うん、と真剣にうなづいて聴いてくれた。
「あの、とにかく、帰ってきてくださいね、絶対に」
と、それは本当に本当に必死に言った。
「もちろん、復帰するつもりはあるけどさ」と言いながらも自分でもはっきりとした見込みは立たないようで「とにかく、頑張るよ。談志師匠に呼ばれたのかもねえ」などとぽつりと言う勘三郎さんに「だっ、だめです、今はダメっ、拒否してくださいねっ!  嫌ですからね、必ず、帰ってきて!」と念を押すと笑っていた。

「何、これから見るの?」
「あ、はい、立見で…」
「そりゃ大変だね…(コクーンのほうを指しながら)なかなか頑張ってるよね」
「私、大好きで…クドカンと串田さんの視点が勘九郎さんにうまくぴたっと合っていて…勘三郎さんだったらこうはならなかったと思います」
「ははは! そりゃそうだ、俺にはできないよ、これは」

素直にいい、とは褒めないあたりに悔しさもあるように感じたが、自分の単なる穴埋めではない、彼らでなくてはできない、新しい世代のコクーン歌舞伎が生まれたことを素直に喜んでいるんだな、とわかる明るい口ぶりだった。

じゃあね、またね!と階段を上がって行く勘三郎さんが途中でまだこっちを見て笑っているから、最後に「もー、びっくりしたっ!」と叫んだらそれに応えてさらに大きな声でわははは!と笑った。

ああ、勘三郎さんの「いつもの笑い声」が聴けた。

そう思いながら立見の列に戻り、そこで初めて涙が出た。恥ずかしかったけれどしばらく泣いた。

誰にもばれないようにそっとやって来てそっと出ていくときなのに、私が立見で並んでいるのを知って(後日マネージャーさんから聴いたところでは好江さんが見終わった勘三郎さんにあそこにいたのは私だと思う、と伝えてくれたのだそうだ)、わざわざマネージャーに呼びに行かせて…というその気持ちが心底嬉しかった。
癌の公表から1カ月、忙しさもあって一度も勘三郎さんに手紙を出せていなかったのだが「浦山から手紙が来ないね」と気にしていたと、後で聴いた。それもあってのことかもしれない。
当日券を手に入れたあとで番頭さんに楽屋口近くでばったり逢ったら、逢えてよかったねえ、安心できたでしょ?ってニコニコと言ってくれた。
(余談だが、中村屋の皆さんは皆さんもう少し気を付けたほうが、というくらいこういうことに天真爛漫だ…)
心からはい、と返事ができた。

勘三郎さん自身の言葉で、自分の耳で、状況を知ることができたことが本当にありがたいし、嬉しいし…何より、安心できた。安心と同時に少し不安も増えたけれど、とにかくお医者様を信用して待つしかない…。
このときはそんな風に思っていたが、残念ながら「またね」はかなわなかった。

これが、私と勘三郎さんの最後の会話だ。

まつもと市民芸術館での千龝楽には行けなかったから、あのサプライズ出演は目撃できていないけれど、これはこれで私にはよい「最後の思い出」だったと思っている。私の目と耳にしか残っていない強い、ほかの誰にもない私だけの記憶。目に残る最後の姿が、あのへんてこな仮装と笑顔と、何より高らかな笑い声であることを幸せに思っている。
偶然かもしれないけれどその偶然を作ってくれた…神様だか仏様だかなんだかわかんないけどその「力」に今でも感謝している。

月命日に書こうと思っていたのだけれど、あまりに懐かしく嬉しく、淋しい思い出なので時間がかかってしまった。
これまで近しい友人にしか話していない、ごく私的な話ではあるけれど、それぞれの勘三郎さんとの最後の思い出を振り返る端緒になればいいな、と思いつつ。

まもなく、今年5月にコクーン歌舞伎が再び上演される。
この日、息子世代だけで作ったコクーン歌舞伎が嬉しくて思わず追加してしまった勘三郎さんだが(しかし、平場の二列目にこんな怪しいおじさんが座ってて、周りの人はうさんくさいなあとか思わなかったんだろうか…)、今回の「夏祭浪花鑑」はどう見るだろう。

みんなの絶賛を聴きながら、うん、雅行も隆行もいい出来だね、と笑いながら「でもさ、俺たちはもっとすごかったんだよ」とちょっと膨れる気がする。


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