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10年前の三社祭~勘三郎さんからの贈り物

懐かしい写真を発掘したので、一筆。

5/30は十八代目中村勘三郎さんの誕生日。今年は亡くなられて10年の誕生日だった。
その夜、聞間拓さんのライブがあって、そこで「誰かの何かの日」そして「10years」と、まるで勘三郎さんを偲ぶ自分の気持ちをそのまま移したような曲が続いて目が潤んだ。

つらつらと思い出す。

10年前の5月は平成中村座で五月大歌舞伎が上演されていた。この月は7ヶ月のロングラン最終月ということもあり、また、浅草は三社祭の季節でもあり、この一ヶ月はずっと「ハレ」が続く、街も人も中村座というハコの中も何もかもがふわふわと高揚した月であった。

三社祭の時期には宮神輿が渡御として、中村座の舞台裏から入ってくるという趣向もあった。
千穐楽にもスペシャルとして、仲見世の神輿が担ぎ込まれ、また、カーテンコールでは相撲甚句が歌われ、芸能と神事が密接であることを強く感じさせる月でもあった。

三社祭の時期にだけ浅草神社で授与されるこの三社祭の扇子をお詣りついでに買ったとき、ふと、勘三郎さんにサインを入れてもらおう、と思い立った。
番頭さんにお願いしてお渡ししたのは三社祭のすぐあとぐらいだったと思う。中村屋の場合、大変せっかちな人なので、朝渡すと夕方には帰ってくる。手紙なんて渡したはしから読むから、朝書いたことがその日の芝居の中に反映してる…なんてこともよくあった。こっちが忘れていて逆にびっくりしてしまう。

ところが、この扇子はすぐには戻ってこなかった。
気長に待てばいいのだが、せっかちな一方で忘れんぼうでもあった中村屋(多忙なのでそれもありがち)、どこかで督促しないと見当たらなくなることも多かった(笑)ので、数日後に確認したら明日には渡せるよ、と。
そして戻ってきたそれを開いた私の驚きたるや。

なんで、サインが3つ…!?

一生の宝物です。棺に入れたいけど勿体ないかな?
もう新しいサインは増えないんだよな…
染さん、細い…(笑)

実はこの月、勘九郎さんと幸四郎さん(当時、染五郎)が中村座で三社祭を通しで踊ってらしたのだ(「弥生の花浅草祭」、四变化の早変わり!)。
それでどうやら、中村屋としては「三社祭なんだし、あーちゃんと雅行もサインしたげてよ!」…てな感じで頼んでくださったと思われる。
(私も中村屋も過ぎたことは割とすぐどうでもよくなるタイプだったので、そのことを確かめたことはない)

勘九郎さんの遠慮しすぎのサインに笑い、染さんのサインの細さに笑い、それからじわーっと胸が熱くなった。

ただのファン…長く応援はしてるとはいえ古参のファンにはかなわない、何か中村屋と仕事で繋がってるというわけでもない、本当にただの「ファン」にここまでしてくださった、その心の源はなんだろう。

唯一、ほかにない私だけが贈れたものといえば、感想の手紙だった。
月に劇場に何度も通い、拍手と声援を送り、思ったことをそのまま綴って渡していた、あの膨大な量の「言葉」だけが、おそらくはほかの人にはなかった、私だけの贈り物だったと思う。
好きな舞台、嫌いな舞台の波長が合い、面白いと思うものの感覚が不思議と近かった。「そうそう、貴女の言うとおりなのよ!」と何度も言ってもらえた僥倖。

そんな言葉に対して、中村屋がいくつも贈ってくれた特別なもののひとつがこの扇子だった。

いたずらが大好きで人が驚くのがとても好きで、熱量には熱量、愛には愛を、贈ったよりも大きく返してくれる人だったなあ…中村屋の誕生日が近づくと、ふっとこの扇子のこととともにそんな中村屋の文字通りの「破顔」、弾けるような大きな笑顔を思い出す。

存命なら67歳。亡くなられて10年、私もあと5年もすると中村屋の享年に追いついてしまう。やだなあ。そのころにはもう少し、胸が痛まずに中村屋のことを思い出せるようになってるのかな。そうだといいな。


いただいたサポートは私の血肉になっていずれ言葉になって還っていくと思います(いや特に「活動費」とかないから)。でも、そのサポート分をあなたの血肉にしてもらった方がきっといいと思うのでどうぞお気遣いなく。