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Free Style Rhymer's High


フリースタイルライマーズハイ

作詞 : unNatural
写真 : unNatural
構成 : 序章〜自分〜他人〜note〜終章
字数 : 約2000字(あとがき除く)
企画 : colour of noters 7月増刊号
タグ : #韻 #詩 #jiyu




<序章>

アウェイのド真ん中店舗設営して
エンドレスゲーム今開幕
無名の四番打者見境なく
韻を踏み倒すノートへ誘います
ページをめくった そこの君にだけ
驚きに満ちた音の響き
ボールド体に込めた多くの愛に誓い
孤独を道連れに勝負を開始
ここを知らなかったあの頃に
後戻りできない
自由の名の下に生まれた
Art Colony











<自分>

喉の奥で言葉が行ったり来たり
浮かんでは消えるモノローグ
目指すものとは程遠く
思考のカタチがしっかりしない
今来た道が 東か西か
区別もできない苛々気味な毎日に
稲光みたいな「降りてくる体験」が
…そんな幻想など抱いたりしない

一様に変わり映えの無い日常に 憤り
この単純な奇跡に胡座かき
怠った庭先の塵掃除
「もう良い歳なんだから安らかに暮らすべき」
もはやビンテージ版と化した人生規範
逆に僕の歪んだ心をはぐらかし
確実に増殖を続ける悪玉菌

そもそも悩みなんてのは十人十色
大切なのは Next Action
そのためにはまず重心の移動
「嫌ならずっとそっち側の住人と居ろ」
大丈夫 その習慣が根付くと楽勝

無意識猜疑心に染まり過ぎし日の中
 根拠の無い自信でも構わない
自分を信じ込む名演技
貪欲に立ち回るAgency
そして跳ね上がる経験値
何も無かった平面にそびえる棒グラフ
遠くなる意識 次はどんな夢を見よう
瞼の裏で気持ち良く
自己記録を飛び越えるプリマドンナ

トンネルを抜け 曲線に光り輝く
成長して初めて
過去の自分との違いが解る
自己実現という自己欺瞞で
アクセルを踏み込む右足裏
ガソリン替わりに注ぎ込むリポビタンD
そこに明確な意味が要るか?
達成感というニンジンをちらつかせ
次のドアが開くまで 気張るだけ
惰性で走ってる頃には
自分で自分がいじらしくなる

これはある意味 自らに課した自主課題 
取り繕ってミスが無いよりも
自分らしく 原点回帰 = Re:クラシック
そう思えば毎日の洗面台に
ディスカバリー

ここでこうやる以上
磨き続けるしかない創作機能
End Of Lifeまで果敢に狙う捲土重来
遥かなる 頂まで 悪足掻く
その道程を今書き足せ

さぁ僕にもう一度ペンを頂戴











<他人>

隣に倣って礼儀正しくお利口にする
さして意味の無いポリモーフィズム
繋がりと共有で造られたアンドロイド
座右の銘は付和雷同
誰かと同じで安堵の色
おはようからおやすみまで
LINEの返事娯楽に化け
窺うべき他人の目
不可逆的マインドチェンジing形
でも溜め息の代わりに吐いてる
「イイね」

似たようなファッション
似たような髪色
1枚40円
カラーコピーの自画像は破棄しろ
散らばる椅子はどれも 二者択一
どれを選ぼうと
飛車角死す で 力尽きる
友達の様に歌うDragonNightだって
離れて見れば
ほら こんな色

だから
強がったって見栄張ったって
否応無しに襲い来る
似たような死皆おんなじ
イヤホン無しで垂れ流す
鎮魂歌のオーケストラ
それはまるで
豪雪の中 行列を成す Dopest Love

人生は誰かの模倣犯
偉人のロールモデルを辿って
鳴らすゴールのベル
『30代までにやるべき30のこと』
でもそれは大嘘です
だって アイデンティティ体現時期
早いも遅いも無い
いくつになったって謳歌できる
薔薇色の恋も愛

繰り返す歴史以上
日々の営みはループザループ
憂鬱なルールを身に纏い
その時動いたのは
各々が主役のエキシビジョン

日を増すごとに この社会は 情報過多に
そしてひとまずここに
他人行儀灯籠流し
内と外のライン上に立つ彼等は
社会の波が 互いの価値や
薔薇色な未来を押し流そうとも
笑い飛ばした
そして何事も無かったかのように

同じ毎日を また営み出す











<note>

『 no create , no note
何も創らずに のうのうと生きていた
2014年3月末
今思えば逆にアンナチュラル
 
白と緑キャンバスに咲く
色とりどり花や草木に見惚れ
創り手自身も 瞬く間に 観客になる
ここは誰かの吐息で華やぐ街

心温まる漫画やイラスト
緻密に練り上げられた小説や詩
爆音注意アクションムービー
静かに激しく叫ぶギター
(笑顔の裏に隠した半端無い覚悟)
(読まれても、なくてもどうせ悔しい)
(派手に見せかけて脚本重視)
(破裂した 表現欲が躊躇いを正面突破)

需要も供給も 右肩上がり百家争鳴
その一筆が玄人登竜門参加表明
神の所業は…気にならなきゃ良い

どんなやり方も大体アリ媒体らしい
腹を括り 胸を張って 晒す My Diary
「◯月×日 今日も十分頑張った
でもそこは待った
Do you understand?
僕たちはEvery time 繰り返す自問自答
表彰台なんて そうそう無い
輝く実績も別に無い
でも野望を秘めたこの胸には
少なくとも「昨日以上」と刻み眠りたい

一丁前に
クリエイターのフリをする日々
初めて身に染みた 産みの苦しみ
こだわりと意地で貫くマイスタイル
弛まぬ努力 夜中に砥石
朝の光の中にはアイツがいる
このまま 緩やかに張り詰めたまま
淀みなく 踊り出す 音になる

そうして流れるライフタイム











<終章>

スローモーション夢想空想もいいけど
適切な自己嫌悪の先にこそある
イノベーション
あの頃 片っ端から叶えてた理想
今ではもはや 片手で足りそう
それでも ここでもう一度 現実にしたい
ただの鉛筆に地雷を除去する力は無い
それは演じる君が 嫌ならば「嫌」
従わないなら良いだけの話
勝利の女神がそっぽ向いたなら
そこでお終い もう挑めない
なんてあるわけない 馬鹿な笑い話
その先で見つけた こんな景色

This is what I wanna see.











あとがき

韻を踏むという作業はパズルのようなものだ。
ある言葉に対して、それと同じ母音を持つ言葉を探して拾い上げ、文章の中に嵌め込み、内容を組み立てる作業。
ただ嵌め込むというだけなら、大抵の場合、複数の解法が存在するが、選ぶピースによって出来上がる絵は全く違う。そして当然、美しい絵を目指せば目指すほど、使えるピースは限られてくる。
この押韻という作業は、同じ母音・似たような響きでなければいけないという「韻を韻たらしめる制約」に加え、さらに「美しい絵を描く」という目的を達成するために、非常に強固で不自由な鎖に縛られているのである。
しかし、こと日本においては、押韻を取り巻く、もっと大きな不自由が存在すると僕は感じている。
「押韻はB-Boyだけのモノじゃない」
僕がnoteを始めた当初に呟いた言葉だ。
日本語で韻を踏む、こう聞くとすかさず、
「ご一緒にYhea!とYo!はお付けしますか?」
と問われそうな空気が、まだまだそこら中に充満していると思う。
これはある意味仕方ない。日本ではHIPHOPシーン以外の場面で堂々と韻を踏む人種がほぼ存在しないからだ。たまに会話の中で偶然語尾が揃ったりすると、「今韻踏んでたんじゃね?!ww」と、嘲笑の対象にすらなる始末。
   例) 「嘲笑」の「対象」って、韻踏んでんじゃね?ww
何を隠そう僕自身も、押韻との出会いは、日本語ラップを駆使した売り出し中のHIPHOPユニットの楽曲だった。ただ違ったのは、ラッパーってカッコいい!トラックがイカしてる!ではなく、押韻って面白い!自分でもやってみたい!という方向に傾倒したことだ。(もちろんそのユニットは十分カッコよかったが)
だがまぁ一般的に見て、日本語を用いて韻を踏む=ラッパー。ヒップホップ。B-Boy。この方程式に疑問を挟む余地はないだろう。

僕は、そんなカテゴライズから自由になりたいと常々思っていた。

歌唱法としてのラップを抜きにしても、押韻という技法は非常にクリエイティブでスリリングで魅力的であると、僕は信じている。
noteで取り組んでいる「押韻短歌」もその信念のもとに生まれたものだ。
そして今回、僕の中の自由でありたいという思いは、この「フリースタイルライマーズハイ」によって、ついに解き放たれた。

実はこのノートの構想は、1年前からあった。ゆるりとしたテーマのもと、韻文をひたすら書き続けていくノート。決してラップではなく、文学だなんておこがましいが、少なくともそこにHIPHOPの影は無く、ただひたすら押韻という技法が生み出す言葉の響きの面白さを感じられるノートを作ろうと思っていた。
でも機会が無かったと言うか、僕自身にそこまでの気概が無いと言うか、ともかく今日までさらけ出すことはしてこなかった。
そんな時見つけた今回のハッシュタグ企画。これしかないと直感した。
集大成だと宣言し、そんなに大層じゃないと恐縮させてしまった。実際、その通りだと思う。単なる一企画。
でも僕は全力で反応してしまった。自由という言葉に。
心の奥底で、noteの可能性を信じているのだと思う。

ラップと共に語られる押韻は歌うことが前提だから、リズムが必要だ。しかし今回書いたものは、ほぼリズムは取れないと思う。歌おうと思っても歌えないはず。小節の概念からも自由になりたかったからだ。
それよりも、文章としてメッセージ性があり、声に出して読んだときに気持ち良く響く、そんな「美しい絵」になるように細部まで拘ったつもりだ。
そもそも日本語は発音がどうこうで押韻に適さないとかいう議論は、僕からしたら、うるせーよ馬鹿野郎という感じ。日本語で踏もうが、英語で踏もうが、フランス語で踏もうが、中国語で踏もうが、それこそ自由だ。

終章のラスト、英語と日本語で押韻している箇所がある。
そこを、「ファットアイワナシー」とは読まず、リエゾンを意識して読んでみて欲しい。
『自由に組み立てた不自由』
その面白さこそが、僕がここで見たいものだから。


※このノートはここまでです。もし購入してくださる方がいれば、細かい押韻の解説を以降に書きます。

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