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虚無と多様性 ニーマガ関西オフ感想

去る4月20日、ニーマガ物理版発刊記念オフ会@関西が大阪城公園〜京橋エリアで開催された。

420というとサイコノートたちに特定の「文脈」が付与されてしまいそうな数字の並びだが、アルコールとニコチン以外におもだった精神作用物質は見られない──隠れて摂取している人がいたかどうかは知るところではないが──いたって健全な会だった。
なんならアルコールでさえ、夜間行動力(夜通し飲み明かす余力)を確保するために「攻めのウーロン茶」でもって理性的かつ適切に管理されていた。

もっとアナーキーで破壊的な会になるかも、と内心ワクワクしていたものの(会の発起人であるゆるふわ無職くんにとってはその可能性は胃が痛かっただろうが)実に平和な、終始落ち着いた雰囲気だった。メンバーのアクの強さ、個性のぶつかり合いを考えると奇跡的と言っていいほどのゆるさだった。これはひとえにゆるふわ無職くんの人徳の成せる業だろう。

思うに、ホモ・ネーモさんや俺のような所謂世間一般でいうところの「社会人」とされる立場の人の方が、反社会的なのではないか。俺に至っては当日遅刻をカマす、ニーマガの原稿案提出の時点でも字数オーバーするなどハチャメチャだ。やはり「社会人」というのは「社会的な人」などではなく、社会(とされるもの)に現状資する(とされている)だけの、カッコ付きの、いつ剥がれてもおかしくない糊の弱ったボロボロのラベルなんだと改めて感じた。帰宅してからこの辺の「社会人」概念についてももっとカンバセーションすればよかったと少しだけ後悔した。

それにしても真っ昼間に太陽の下、お堀の近くで飲むいいちこのレモンソーダ割りは美味かった。今年は花見らしい花見をしていなかったので、初夏の陽気のなか、各々が好きなものを持ち寄る気楽なピクニックはそれだけでいい気分転換になった。
しかしそうしたロケーション、万全の「セットとセッティング」よりも俺が感動したのは、ニート(と自己規定することにためらいがない人)たちの多様性だった。

ろっさんのように「太く短く」生きるために定職に就かず無期限の旅に出ているアツき冒険者もいれば、ゆるむしょくんのように自身の生命を存えさせるため、無理のないオルタナティヴな解として無職を選んでいる人もいる。これは他のメンバーの属性のみを取り出して現役大学生、フリーター、ヒモ、二児の父などの肩書きの多様さからも明らかだった。

野暮用により遅れて参加したが、あらかたメンバーの揃った会場についてまず、

「いろんな人間が、いる!」と思った。

特にゆるふわ無職くんとはTwitter(当時)で相互FFになった期間を足せば最も旧い付き合いで、もう4,5年くらい?互いに文章を開陳し合い、影響を与え合った仲だろうか。会えたときは「あの文章の人が、“現実”に〈存在〉している!!!」みたいな、奇妙な、しかし当たり前の事実に大感動しきりだった。

ゆるむしょくんは想像していた通りのヴィジュアルでバンドマン、中でもベーシストっぽい(実際ベーシストらしい)アンニュイな文学青年の雰囲気もちょっぴり感じられた。
トガりと優しさが一目で分かるほどに止揚されていて、非常にモテそ〜と思った(俺が俗物なので、せっかく善い人に会えても感想が俗物)。

いろんな人間がいたが、だいたいみんなのことを一目見て、どのアカウントの持ち主か当てることができた。俺は特殊な訓練を経ているのでその人の「魂」を視ることができるが、それにしても内面が肉体を規定しているかのような体験で面白かった。

しかしホモ・ネーモさんに言わせれば、いかに個性的なメンバーの集まりであろうと、それは平均して20代の若者たちの集まりでしかなく、けだし俯瞰した世代性を備えた人やな〜〜と感じた。そんなに遠くないところにお住まいのようなので、今度は気軽に2,3人で集まってもっと話したかったトピックをしっぽり深掘りしたい。

レジャーシートという限られた空間を譲り合い、各自が誰に言われるでもなく持ってきた酒やツマミを分かち合うときのような、ふとした瞬間に思わず利他的な行動が出たとき「お、貢献欲やん!」とネーモさんの思想が半ばミーム化していたのも楽しかった。
使ってみて分かったが、貢献欲というのは非合理な利他行動を説明できるだけでなく、欲求という自然なドリブンで根底から認識を変えて自己規定することのできるすごい概念なのでは。
ネーモさん、初対面で試すような質問ばかりした無礼をお許しください。ニートは多様で、一枚岩ではないけれども、少なくともあの場にいた働きたくない人たち(俺含む)は確かにネーモさんに希望を見ていたと思いますよ。応援してます。

そのようにネーモさんに訊きたかったこと、ゆるむしょくんの記事で気になっていたことなどを直接訊くことができて、その点もよかった。
ゆるむしょくんが目の前の水の入ったペットボトルを指して「ここにペットボトルがあります」から始まり「意識のハードプロブレム」について語るとき、「“この意識”が五感を通じて『この脳内』で発生している理由がわからない!」とかなり実感をもって、迫力のある語り方をしていて、そのたびにサラサラの黒髪を振り乱しながら“この意識”が!と両手で頭をポンポンと叩くように、深く悩むようなジェスチャーを加えていたのが印象的だった。彼は本当に虚無を抱えて苦しんでいるのだ。なぜか美しいと思った。
こうしたノンバーバルなコミュニケーションはまさに対面の醍醐味で、単に記事にするために「主張」しているのではなく、本当に「わからない」のだなと感じられてよかった。そのレベルで「わからない」なら信仰まであと一歩なのに、とワクワクもしたし、そういう話をした。

蚊や蝿のような“害虫”を殺そうとしたときに「逆だったかもしれねェ…」になるみたいな謎の感覚を共有できたのも良かった


レポでひろーりくんがしんめいPさんの新著『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』を真剣に読みながら、著者に直接不明点を訊くという贅沢な読書体験に触れられていたが、俺にしてみればここに集まった人たちはみな「著者」だ。
何かしら心の裡を著して、文章にして表現してくれている。自身の内面世界を語ることのできる人は、このSNS全盛の時代でさえ案外多くない。それが本ニートマガジンの「足切り」になってしまっていることを危惧するゆるむしょくんの慈悲には感服したものだが。

そうしたニートたちの居場所づくりという意味では、ボドゲ会は遊びを通じて交流できるという点が「救い」になるのかもしれないなんて思った。ただしボードゲームもルールを理解でき、さらにはロールプレイできるだけの知性と社会性を求めるという点ではそこにも「足切り」はあるかもしれない。いやそんな意地悪な見方もできるけれども、特に深く考えすぎず、みんな参加すればいいと思う。近々東京でボドゲ会が開かれるらしい。自分は学生のときやたらボドゲに縁があって、バイト先のNPO法人や所属ゼミで「カタン」や「ゴキポ」を軽く触った程度だが、絶対に楽しい。みんな万難を排して参加せよ。

終わりに、一部のメンバーは城公園の公衆トイレに近い芝生で夜通し飲み明かし、語り明かしたが、仏教もセカイ系も、メソヂスムも資本主義も合理主義も、存在消滅も意識のハードプロブレムも、シニフィエとシニフィアンも鏡像も、「ヒリつき」も脳汁も、死と生と性も、「覚悟」も、友情・努力・勝利も、残響系も釣りもPSYREN -サイレン-もオーシャンまなぶもネウロも、貢献欲も特異点も、全然、全然まだまだ語ることがあった。語りたかった。ただ俺たちにその体力が残されてなかった。そもそも関東から遠路はるばる大阪まで来てくれて、大人数と話すだけでもひと仕事だったろう。お疲れさまでした。

次回があるなら俺が関東に行く。いや〜〜本当に楽しかった。解散前の散歩、あの早朝の影すら青い寝屋川の景色は〈特異点〉として俺(とされる現象)の中に打ち込まれたことだろうと思う。

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