小説「剣闘舞曲」7 後編(終)
本作をお読みになる前に
この作品は、闘技場で行われる試合を描いたファンタジー小説です。
怪我や血の描写、魔法の要素、他にもあなたが苦手とするものが含まれるかもしれません。ご了承の上でお読みください。
また、本作は特定の国や楽器、音楽に対する批判など、作者の思想を広める意図で作られたものでは無い事を予めご理解ください。
空山非金
7:終演 (後編)
治療室から傷病者用の個室に移されたモーグの姿は、変わっていた。
血と土で汚れ、各所が破れた服から病衣に着替えさせられたからでは無い。モーグの体、その表皮に夥しい稲妻模様――電撃傷が走っているのだ。
それらの傷跡は通常のそれとは異なって光沢を持ち、点々と、特に樹状に広がる基部は硝子質の輝きを宿している。
部屋の扉が叩かれ、入室を告げる声と共に一人の近衛兵士が部屋に入って来ても、それに続いて二人の近衛兵士を引き連れたフランゲーテの王が部屋に足を踏み入れても、モーグは寝台の上で上体を起こしたまま、硝子質の外骨格に変わってしまった右手をぼんやりと見下ろしていた。
「……随分と変わったな、この短時間で」
病室に響いた第一声は、苦々しく呟いた王の一言だった。
「こんなのでも、思い通りには動いてくれるんです。少し、重たいですけど」
言って、薄く笑ったモーグは顔を上げた。
貴人と謁える緊張も恐怖も無く、諦めに悔しさを溶かし込んだ表情で。
「少し、話をしよう」
縋るとも泣き付くともつかないモーグを見詰め返し、王は言った。
「…………はい」
厳然たる王から視線を外して、モーグは右腕を隠す様に袖を直す。
そうするモーグを見下ろす王は、そっと息を吸い込んだ。
「自己紹介が遅れた。私は、アポロムズィーク・フォン・フランゲーテ。現フランゲーテ魔法国王だ」
落ち着いた声で名乗った王は、そっと左手を差し出す。
「君の右手を思っての事だが、左手で良いか?」
モーグは目の前に差し出された左手と王の顔を見比べて、次いで自分の左手を見る。
ある種の虫にも似た形に窶した右手と比べれば微々たる変化だが、モーグの変化は左手にも及んでいる。モーグはその手を、特に変化の著しい手首を露にして、王の目に視線を戻した。
「こんな手でも良ければ、ですが」
「挨拶をしようと言っている。君の傷を診るつもりは無い」
即答した王がモーグの左手を引ったくる様に握る。
力強く硬い掌は優しさを内包していて、温かい。
モーグの手よりも一回りも大きな王の手が力を込めると、その熱はより一層押し広げられて、モーグの心の裡に手を伸ばし、柔らかく触れた。
『若き才能よ。君はまだ、剣を取れるか?』
王の声が響いた気がして、モーグは「え」と声を零す。
『君に、決勝戦の場に立つ理由はあるのか』
目を見開き、王の口元を見る。
動いていない口元を見ている内に、王はゆっくりとモーグの左手を離した。
いや、モーグの視覚にだけ、ゆっくりとした動作に映っていた。
世界が、ほんの一瞬、握手を交わしたその瞬間だけ、引き伸ばされていた。
「あ、あります」
モーグが咄嗟に呟いた声に、王は目を見開いたが、その様子を見てもモーグの口は止まらない。
「俺は、俺には、負けられない理由とか、誰かの為とか、そういう大きなものはありません。――けど、そういうのは無いけれど、俺は…………俺は、負けたくない。負けるのが嫌で、嫌で嫌で仕方が無いから、戦います」
一息に発したモーグの声が響いて、室内は沈黙で満たされた。
視界の端に映る近衛兵士たちがモーグを睨んでいる。三人分の警戒心が不可視の刃として喉元に突き立つのをモーグは感じた。
それに対し、王は何かを味わう様にモーグの瞳をじっと見つめている。
それから背筋を伸ばして細く息を吐いて、王は自身の胸に指先を当てた。
「私の声が――心の声が、聞こえたか」
王の言葉に、モーグは己の左手を見る。
あれ程温かかった王の手の平から伝わった熱が、いつの間にか霧散していて、今は何も感じない。
しかし、握手を交わした瞬間、モーグは確かに王から声を受け取っていた。
己の左手からシーツへ、そして深紅の外套を辿って王の目を見詰め返し、再び視線を彷徨わせて、モーグは右手に目を向けた。
「は、はい…………。君は……俺は、戦えるのか、そうする理由はあるのかと、そう、仰っていました」
モーグが言うと、王は「ふ」と笑みを零す。
鼻で笑った様な音だったが、そこには決して嘲りや侮蔑は無く、柔らかい。その音の意図は、次いで「そうか」と呟き乍ら微笑む王の顔が示していた。
「君の状態は治療を担当した医師から聞いている。レベクの剣が放った稲妻の魔法、その熱量により、自身の剣、ロバトのマギニウム製の部品と右手が癒着し、そこから操者の傷跡を埋める様に君の体内にマギニウムが流れて行った……一笑に付する様な話だが、こうして外見にも、そして私が次に言おうとしていた事に答えられてしまっては認めざるを得ない」
王はそこで言葉を切り、手近な椅子に腰を下ろした。
「モーグ、君の剣に仕込まれた魔法は『接触式信号増幅魔法』……つまりは、操者の神経伝達やそれ自体を大きく、強くするんだな?」
「はい。ロバトはそれの暴発を防ぐ為に、柄巻きを厚めに巻いて、握る力の強さである程度制御できる様になってます」
モーグの話を聞いて、王は小さく頷いた。
「であれば、今の現象はその魔法によるものか……と言っても、私には何も感じられなかった事から君自身が信号増幅器になったのでは無く、あくまで受け取った信号を増幅するのか…………」
独りで語り始めた王は、少しの間思索に耽り、軈てモーグの視線に気が付いて苦笑した。
「いやすまない、幼い頃から研究職への憧れがあってね」
恥じ入る様に笑う王に、モーグの口元が綻ぶ。
「いえ、俺も頭を使うのは好きですから、陛下のお気持ちは分かります」
「そう言ってくれると有り難いよ」
王は微笑み、対するモーグは笑みを曇らせて俯いた。
「それで……俺は一体、どうなっているんでしょうか……」
モーグが俯き見下ろす先には、人の姿から大きく外れて、それでも思い通りに動く右手がある。
王はその右手とモーグの横顔を見て、ゆっくりと口を開いた。
「フランゲーテの歴史には、人にマギニウムを仕込んで生体兵器とする研究が隠されている。これは誓って王家の者が進めた研究では無いと断っておくが、我々の発見が遅れた為に十三人もの民を兵器と化させ、処刑せざるを得なかった。……恥ずべき汚点だよ」
語り、王は外套を外して一人の近衛兵士に預け、更に上着を脱いで右腕の素肌を露にする。
「それ……」
呟いたのはモーグだ。
王の右前腕、肘から少し先に、火傷と見られる形に硝子質の変化がある。
目を見開くモーグに対して、薄紅に輝く傷を見下ろす王は懐かしむ様に微笑んでいた。
「当時、私が王子として征伐に向かった際、生体兵器の一人に腕を焼かれた。以来この傷は消せず、私は人よりも平熱が上がってしまってな」
王は冗談めかして言ったが、モーグには微塵も笑えなかった。
もしも自分の身体が変質していて、その生体兵器と同じになっているとしたら。
もしも、その力を制御出来ずに、例えば握手の際に暴発でもさせていたら。
先の試合の様に、自身の思考よりも百秒余り遅れる世界を楽しんで、荒れ狂ってしまったら――。
「あ……れ、レベクは、レベク選手はっ」
甦った記憶で慌てて寝台から下りようとするモーグを、王は肩に手を置いて押さえた。
「ああ。君に斬られた。ただ斬られたんだ。元通りになったと聞いている」
肩の力が抜けて、然して安堵する資格はあるのかとモーグは両手を握り込む。が、モーグはすぐに手を開いた。
くしゃりと音を立てた布団がどうにかなってしまうのではないかと案じたのだ。
「私が今ここに居るのは、君のその不安を拭う為だ」
王の声にモーグが顔を上げると、王はモーグを優しく見守っていた。
「生体兵器の特徴は大きく四つ。
一つ、一部又は全部がマギニウムと一体化した肉体である事。
一つ、その身一つで予備動作も無く魔法を発動させ、操る事。
一つ、不死身とも言える再生能力を持つ事。
そして最後に、脈拍に合わせ、特定の音階を奏で続けている事――三つ目は不明として、四つ目の項目には当て嵌まらない。よって、君は生体兵器では無いと私は判断する」
そう言って王は微笑み、しかし、モーグの胸中は安心とは程遠い所に居た。
「でも、偶然とは言え俺はその……生体兵器の状態に限り無く近い、という事ですよね…………」
不安を言葉にして吐き出す。
モーグの言葉を聞き乍ら、王は上着を着直して近衛兵士達に手を出していた。
「ああ。それは否定しようの無い事実だ。だから――」
三人の中で手の空いている一人が、腰に提げた小さな鞄から小箱を取り出して、丁寧に王へ差し出す。
モーグに向き直り、王は小箱の中身を見せ乍らモーグの瞳を覗き込んだ。
「西座の戦士、モーグよ。決勝戦へ出場するのであれば、君には魔法を封じてもらう」
王族が持つには質素な、装飾の抑えられた小箱には黒い腕輪が二つ入っていた。
光沢の少ないさらりとした質感の腕輪は、室内灯に照らされて細やかな線状の光沢を浮かべ、異様な存在感を放っている。
モーグはその腕輪に視線を奪われたまま口を開いた。
「これは……?」
「反応式魔法相殺器。簡単に言えば、これを付けたものが発する魔法を打ち消す道具だ。――今の君を戦わせるのは危険すぎる。だから、これを着けて魔法を封じた上で決勝戦の舞台に立つか、辞退して本格的な治療の後に元の生活に戻るか、選んでもらう」
王が提示する選択肢を聞いて、モーグは一つの疑問にぶつかる。
決勝戦の舞台に立つ。
一度目はぼんやりと受け入れていた言葉に違和感を覚えて、モーグは石材が敷かれた床に目を落とす。
「俺は……勝った事になってるんですか?」
モーグの呟く様な問いに、王は「ん」と声を上げた。
「ああ。レベクが場内に残した魔法が暴発し、関係者に怪我人が出たからな。彼には今大会の決勝戦出場権が無い」
王の話に、モーグは目を見開いて王の顔を凝視した。
「それに、君はレベクを打ち倒している。こうして目を覚ましたのなら、当然決勝戦へと進む権利が君にはある。……但し、危険すぎる君の魔法を封じて出場するのならば、だが」
真剣そのもので告げられた言葉に、モーグは胸の内から湧き上がる単純な言葉に、ぶるりと全身が震えた気がした。
「戦いたいです。俺は…………俺に、戦わせてください」
無意識の内に視線が漆黒の腕輪に吸い込まれ、モーグは二つあるそれを掴んでいた。
「まだ負けていないのなら、それが俺の戦う理由です」
折り畳み式の留め具を締め、モーグの電撃傷が輝きを失う。
唯一、生来の虹彩だけが黄金色に燃え盛っていた。
***
準決勝戦の第二試合を終えて、ハンソーネとタロウは談笑を交わし乍ら通路を歩く。
その二人が歩みと口を止めたのは、慌ただしい靴音を立てて若い男性が駆け寄って来たからだった。
「どうした、ナーゴ」
訝しげに顎を引いたハンソーネが『ナーゴ』と呼んだ彼は、フランゲーテ騎士団の紋章を左胸に遇ったコートを着ている。その事から、地方育ちのタロウにも彼がハンソーネの同僚か部下なのだろうと想像できたので、タロウは驚きの声を堪え、見開いた目でナーゴを見つめた。
それに対してハンソーネの表情は些か冷たく、ナーゴを見下ろす様にして息を切らす彼の次なる言動を待っていた。
「ハンソーネ師団長! も、モーグ選手の治療が終わり、五時区画の傷病者用個室に移されたとの事です!」
そこで言葉を切るナーゴに、ハンソーネは目を細める。
「で、試合ができそうだとでも報告しに来たか」
「ち、ちっ違います! それで、そこに、モーグ選手の居る部屋に、陛下が向かわれて、私も同行しようとしたのですが、えっと、師団長に余裕があるのなら、そのぅ、モーグ選手が居る部屋に来るように、と…………」
ナーゴの辿々しい説明を聞いて、ハンソーネは頤に指を添えた。
ハンソーネ達が居るフランゲーテ中央都市の闘技場『クシフォス・ハーモニー』は円形に造られており、時計に準えて大きく十二の区画に分割されている。
タロウと共に南側の入出場口から退場したハンソーネは、今は六時区画――つまり、指定の区画に近い位置に居るのだ。
その状況を瞬時に理解したハンソーネは、次なる懸案事項にぶつかった。
(幾ら近いとは言え、次に当たる選手の状態を事前に知ってしまう事は騎士道に反するのでは無いか。いやしかし、国王陛下からの言伝で――)
そうして思考を巡らせようとするハンソーネの肩に、ぽんとタロウの手が置かれる。
「いいじゃん、行こうぜ。王様の指示なんだろ?」
口角を上げて明るく――人によっては軽薄な印象を受けそうな表情でタロウが言って、ハンソーネはそれに難色を示し、ナーゴは口と両の目をぽかんと開けた。
「しかしだな、対戦相手の怪我の具合を知るのは対等な条件とは」
「でも王様が言ったんだぜ? なら、何か考えがあっての事だろ。俺も着いてってやるよ。もうやる事ないし」
「おっお、お前ぇ!」
突然怒声を上げたナーゴが、ハンソーネの肩に手を置いたまま話すタロウに掴みかかろうとした。
タロウはそれを軽やかに避け、尚も敵意を剥き出しにするナーゴに「何すんだよ!」と怒鳴る。
「お前! 師団長殿に気安く触れブッ」
捲し立てるナーゴの言葉は、背後から振り下ろされたハンソーネの鉄拳により打ち切られた。
強かに打ち据えられた頭頂部を押さえるナーゴが膝を着くと、ハンソーネは無慈悲にも彼の尻を蹴り飛ばす。
「騎士が王の御前と戦場以外で膝を着くな」
「す、すみませ……」
頭と尻に手をやってよろよろと立ち上がったナーゴに困惑したままのタロウは、頭を掻いてハンソーネを見た。
「で……行くのか?」
「あ? ああ、行こう。五時区画ならすぐだ」
「じゃあ、まあ、頑張れ」
そう言って見送る様に手を上げるタロウを、ハンソーネはきょとんと目を丸くして見詰めた。
「タロウ、お前も来るんだろう?」
「えっ!? いや、俺は……ほら、ナーゴが怒るし」
「こいつの事は放っておけ。戦士に敬意を表する事を忘れた騎士など騎士では無い」
「そ、そんなぁ」
「ナーゴ、客席に戻って大人しく反省していろ」
「…………はい」
とぼとぼと通路を歩き出すナーゴを見送って、反対方向に足を踏み出そうとしたハンソーネが振り返る。
「ナーゴ! お前、挨拶を一度もしていなかったな」
「えっ、あっ」
「明日は早朝に見習い達と同じ訓練に付け。勿論、お前は見習い側だ」
「は、はいぃぃぃ!」
ナーゴは泣き声を上げ乍ら通路を駆けて行った。
フランゲーテ魔法国、その中央都市の上空を飛ぶ鳥は、都市の中に一際大きい石牡丹が咲いているのを知っている。
周囲のどの建築物よりも大きく、繊細な彫刻で彩られたそれこそが『クシフォス・ハーモニー』。剣闘舞曲祭の中心となる闘技場だ。
ナーゴと別れ、モーグが居るという個室へタロウと連れ立って向かうハンソーネは、無意識に歩みを速めていた。
一体、何故。王はモーグの元にハンソーネを呼びつけたのか。
ナーゴの伝言に『余裕があれば』と付いていた事から、王は本当にどちらでも良いと考えたのだろう。その塩梅は、王の直下で働いている内に理解していた。
しかし、何故――。
疑問は一向に解消されず、同じ様な言葉が溢れ続けて止まないので、ハンソーネはその疑問を解消するべく足を動かす。
その内心を察してか、ハンソーネに従って歩くタロウは何も言わずに歩幅を合わせていた。
二人の行進は三分と掛からずに終わる。
ハンソーネが記憶している館内図と当日の警備編成をしっかりと守って、医療班に関わる部屋が立ち並ぶ通路へ続く三叉路の一つに、運営委員会の腕章を着けた軽装備の男性が長槍を手に立っている。
ハンソーネは彼が目に入った瞬間に大きく息を吸った。
「ハンソーネ・トロンバ。今は選手ではなく一人の騎士として、王の命により参じた。通してもらえるか」
男性に歩み寄りつつ略式の敬礼をしたハンソーネに、男性は背筋を伸ばして敬礼らしき姿勢を取る。
彼はあくまで『運営委員会の警備担当』であり、現役の兵士でも騎士でも無く、民間の人間なのだ。
「はい、近衛兵士のセイゴウ殿より伺っております。……あの、タロウ選手は、一体…………?」
ハンソーネの後に着いて来たタロウを見て、男性は困惑に顔を歪める。
それを受けてハンソーネはタロウを振り返り、ほんの短い間沈黙してから「部下にした」と言ってのけた。
「はぁ!?!?」
タロウの声が木霊して、通路に立ち塞がる男性は困惑の色を深くする。
「あ、あのう、合意が無い様ですが……」
「中々の曲者でな。あとひと押しなんだが」
「何言ってんだアンタ!? 俺は騎士なんか向いてねぇしならねぇよ!」
「困りますハンソーネ様、今日はただでさえ」
「なんだ、師団長くらいは信用してくれても……なんだその武器の山は」
押し問答を始めようとした所で、ハンソーネの視線が男性から、その背後、壁に並べられた多種多様な武器や防具たちに移った。
盾の裏に剣を納めた薄青の武器。革布で包まれた長大な大剣。靴が入る様な木箱の上に載せられた演奏用の弓。壁に立て掛けた長大な箱と、その前に揃えられた鉄靴。
それらは見紛う事無く、剣闘舞曲祭の最終日に鎬を削り合った選手達の物だ。
そして、それらの脇に一つ、反りの大きい刀が一振り、立て掛けられている。
「彼らも陛下に?」
胸中の疑問を素直に口にしたハンソーネに、男性は頭を振った。
「い、いえ……モーグ選手の、見舞い客です……」
怖ず怖ずと発された言葉に、一瞬の間を置いてハンソーネは吹き出した。
「なんだそれは! 碌に話した事も無いだろうに、態々来たのか? あの四人が?」
「え、ええ、まぁ……皆様理由はそれぞれに、プレスティア選手の武器を見るなり私に預けるから、と…………」
「いやぁ、はは、貴方も大変だ」
丸め込まれた警備担当を叱責するよりも、目の前のぞんざいに並べられた武器たちが可笑しくてハンソーネは笑い続ける。
そこに、タロウが踏み出した。
「なら俺もお見舞い! 武器はこれで全部! 心配なら調べてくれてもいいぜ」
腰に提げていた鞘ごと木刀を男性に預ける――いや、押し付けるタロウの背を見て、ハンソーネは再び吹き出した。
それからハンソーネまで細剣を預けようとするので、男性は「ハンソーネ選手は陛下の命がありますから!」と剣を突き返した。
ハンソーネは武器を置いたタロウを連れて、五時区画の通路を進む事になった。
二人が歩く通路はクシフォス・ハーモニーの『緯道』――各区画を繋ぐ同心円状の通路――に当たる為、緩く弧を描いて続いている。
「なあ、叱らなくて良かったのか?」
タロウが口を開いたのは、行き止まりに続く『経道』――闘技場の中心から外側へ放射状に伸び、緯道を繋ぐ通路――を一つ、横目にして通り過ぎた時だった。
「……そうだな」
タロウの問いに対して曖昧に呟いたハンソーネは、思考を巡らせ、顔を上げる。
「一人一人の真意までは分からないが、戦士として技を磨いて来た者同士が繋がりを持つ機会を、こんな所で潰してしまうには惜しいと思う。……それに、私は――せめてフランゲーテの民くらいは、互いを尊重し、心からの善意で触れ合って欲しいと思うんだ」
言って、ハンソーネは人知れず拳を握り締めた。
「そこから、この世界の人々に広まってくれれば…………そう、思うからかな」
靴音が二人分。沈黙を際立たせて響く。
沈黙に耐え兼ねたハンソーネが目だけでタロウの様子を窺うと、タロウは歩き乍ら腕を組み、首を捻っていた。
「あーーー、わっかんね。やっぱ戦争行ってると、そうなるもんなのか?」
「そうなるって、どういう……」
「だからさぁ、なんつーかほら、ことなかれ? 違うな。えーっとほら」
「平和主義?」
「あ? あー、うん。まぁ、それかな。それが近いかも」
「別に、戦場に出ずとも誰しも平和を願うだろう」
「それはそうなんだけどさ…………皆が、フランゲーテに限らない、世界中の皆がいい人ならいいのにって事だろ? ハンソーネが言ったのは」
タロウの言葉を聞いて、ハンソーネは一瞬足を止めた。
そうだった。とは、胸中で呟く。
――どれだけ広い言葉を使っていても、大抵の人々にとっては、この国までが境界線なのだ。
遠い異国を、いや、鬩ぎ合う隣国であっても、それを営む人々の存在を知ってはいても、それらは敵か不干渉の自然物でしかない。
その事実を思い出して、ハンソーネは果ての無い悲嘆を瞑目で押し殺した。
「戦地に行くから、か」
足を止めたハンソーネを振り返るタロウの瞳には、策謀も、諦観も、狂気も無い。まだ、白紙だ。
「そうなのかもしれないな。……私は、殺し合う事に慣れる事も、飽きる事も……疲れる事も無いから、争いはあっても、戦争の無い世界を求めているのかも知れない」
弧を描く緯道は先が見えない。
途方も無く長いのではなく、曲がっているから。
「それでも、いつか、叶えたいとは思うよ」
ハンソーネの言葉に、タロウは真剣な面持ちでこくこくと頷いた。
真意は分からずとも、善意が広がれば。
ハンソーネは己の言葉を反芻して、再び歩み出した。
***
近衛兵士から無事だった防具を返してもらい、ぼろぼろになってしまった衣服や割れた防具に関しては代替品を受け取って、モーグは病衣から戦闘用の衣服に着替えた。
「君の剣は損傷が激しいそうだが、応急処置を買って出てくれた者がいてな、そろそろ届いても良い頃だとは思うが」
そう言う王に振り返って、モーグは背負い袋を肩に掛ける。
「ありがとうございます。出来れぱロバトを使いたかったので、自分で受け取りに行きます」
言い乍ら、モーグは黒い外骨格に似た形に変化した右手で、肩紐に巻き込まれた襟を引き出す。
その動きに淀みは無く、王は小さな嘆息を漏らした。
「思う様に動くか?」
王の問いに、モーグは右手を見下ろして、きしきしと音を立てる右手を握り、開き、体操をする様に全身を動かす。
「…………ええ、なんとか。重たい防具が貼り付いてる感じですけど」
苦笑するモーグに、王は「そうか」と呟いて頷く。
それから、王が壁に寄り、部屋の外へ続く扉への道を空けた。
「西座の戦士、モーグ。剣闘舞曲祭、運営委員会会長として、フランゲーテ魔法国王が決勝戦への出場を許可する」
凛と発せられた声に、モーグは足元に背負い袋を置き直して片膝を着く。
「ありがとうございます」
深く、謝意を込めて下ろす頭に、王の掌が乗せられた。
「此度の大会、その最後を飾るに相応しい試合を期待している」
我が子に対する様な優しい掌からは、体温以外には何も感じない。
直接感じずとも、モーグには王の慈悲を悟る思考がある。
それで充分だと、そう噛み締めて、王が手を引いてから顔を上げた。
「アルト、工房までモーグを案内せよ。近衛は二人に任せる」
「はっ」
王に指名された中年の男性近衛兵士が、一歩踏み出して王国式の敬礼を見せる。
アルトは顔を上げたモーグと目を見交わして、扉の方へ進んで行った。
モーグはそれを見て背負い袋を肩に掛け直し、アルトによって開かれた扉の先へと踏み出す。
「モーグさん!」
途端、すぐ目の前から声がして、モーグはその光景に目を見開いた。
「れ……」
通路へと踏み出したモーグに真っ先に声を掛けたのはレベクだった。しかし、モーグはそれ以上に声を出せず、通路に並ぶ七人の顔を見比べて呆然とする。
「き、傷跡ですか、これ、凄いことになってますけど」
「パッとしねぇ奴だと思ってた筈なんだが、なんだよそのパンチのきいた格好……」
「ちょっとは良い男になったか?」
「えっえっ、こいつが? モーグ?」
モーグの顔を見るや否や好き勝手に話し出したのは、レベクに、ヘロン、マリアンヌ、タロウだ。
口々に言葉を掛け、モーグを囲い込む四人に胸の前で両手を挙げて距離を置こうとすると、今度はモーグの右手に対して盛り上がってしまう。
「敗退者共、やめないか。というか何故ここに居る」
モーグの後ろから割って入ったのはアルトだ。
背の高いアルトの物言いに、レベクを除く三人が明確な敵意を露わにする。
「なんだと? テメェ運営委員会サマかよ? お?」
「準決勝敗退者『様』だ、タコ! 教育がなってねぇんじゃねぇか?」
「俺とタメ張る立端かよ、剣は上手いのか、あ?」
怒りの火が燻り出したマリアンヌ、タロウ、ヘロンの三人に通路側から割って入ったのは、ハンソーネだった。
「やめろお前たち。彼の襟飾りが見えないか、近衛兵士だぞ」
早口で諌めるハンソーネは、伸ばした左腕で三人を押し退け、アルトに対して頭を下げる。
「申し訳ありません、バイェルヌ殿。彼らはモーグの身を案じて見舞いに来たのです」
「では、それ相応の態度があろう。現在此処は要警備区画だ。警備担当に会わない筈が無い」
ハンソーネの謝罪に対して冷ややかに告げたアルトは、改めてその場の七人を見回して、そして、離れた位置で壁を背にした老爺に目を留めた。
眼が溢れんばかりに瞼を開き、小さく「アイゼナハ師範……」と呟いた声がして、モーグは眼前の四人の隙間からその姿を見た。
「私はモーグに剣を届けに来ただけでな。先客が居たので待機している」
故郷――ヨルクを発って凡そふた月。
その姿と声は忘れようも無い、モーグの師その人だった。
「し、ししょ」
「モーグ。先客が居ると言っている」
静かな叱責の声にモーグの背筋は瞬く間に伸ばされる。
「は、はい!」
今日一番に大きなモーグの声が響き、通路内は水を打ったように静まり返った。
「手順と礼儀、手順と礼儀、手順と礼儀……手順と礼儀、手順と礼儀、手順と礼儀……」
瞬く間に師との修行の日々が呼び起こされ、モーグは直立不動のままぶつぶつと呟く。
その顔の前に開いた手の平を差し出したのはタロウだった。
「お、おーい? モーグ、大丈夫か?」
「あっ、す、すみません」
上下に振られたタロウの手の平に気が付いて、モーグの肩からは力が抜ける。
「とにかく、剣闘舞曲祭は終わっていない。決勝戦が控えていて、観客は待ち侘びている。手短に済ませる様に」
頭上から降り注ぐ声を振り仰いで、モーグはアルトに頭を下げた。
「ありがとうございます」
そう言うモーグから離れ、アルトはヨハンの居る方の壁際に立つ。
「アルトよ、頭の固さは相変わらずか」
「ヨハンさん、よしてください」
それを口火に二人が話し始めたのを見て、六人はモーグに近付いた。
しかし、先程までの騒がしさは何処へやら、六人――特にアルトに食って掛かった三人は目配せをして先を譲り合い、軈てレベクが口を開く。
「モーグさん。その、何を話したらいいか…………あ。試合開始の前、失礼な事を言ってましたよね、僕。すみません……」
レベクの言に、モーグは首を傾げた。
「ごめん、その辺は俺も曖昧で……たぶん大丈夫、です。覚えてないから、特別傷付いたとか、そういうのは無いと思う……思います」
「それはそれで悲しいんですけど」
「え、あれ?」
モーグとレベクが話し、気まずい空笑いを交わしていると、がしがしと頭を搔く音がする。
「レベク、そんな事の為に俺を連れて来たんじゃねぇよな?」
ヘロンが呆れた風に言うと、レベクはぶんぶんと頭を振った。
「ち、違います! えっと、そう、そうだ。モーグさん」
改めてモーグを呼ぶレベクは、自分の目元に指を添える。
「僕の方はきちんと治りました。試合の時、お互いに必死で、勝つことばっかで、でもきっと、僕なら相手が心配になると思って、それだけ伝えに…………いえ、決勝戦も、全力で戦えるように。そうして欲しくて、来たんです」
言い終えてにっこりと笑うレベクの顔を、モーグは凝視する事しか出来ない。胸の内に、木漏れ日が差した様な気がしていた。
「結局それだけかよ。俺が来る意味無かったろ」
長身を反らして言ったヘロンに、レベクはにこやかなまま振り返る。
「お見舞いは人数が多い程いいでしょう?」
「俺は別にモーグと関わりねぇし、こいつも困るだけだろ」
「いや、嬉しかったよ」
そう言ったモーグの声でレベクとヘロンの視線が向けられ、ヘロンは眉間に皺を寄せてモーグに詰め寄った。
「言っとくが、俺はどっちかと言うとお前に腹が立ってる」
言い切ると共にヘロンは人差し指でモーグの胸、心臓の辺りを小突く。
「テメェは準決勝で正気を失ってやがった。アレは必死とか無我夢中じゃねぇ、狂ってただけだ。そんな柔な奴がレベクに勝って、しかもスッキリした顔で決勝に進もうとしてんのが気に食わねぇ」
ヘロンはそこで言葉を切り、背筋を伸ばしてモーグを見下ろす。
モーグにはそうするヘロンの目が、自分を試す物に感じられた。
「二度とあんな不細工な試合をするんじゃねぇ。此処は戦いを見せる場所であって殺し合う場所じゃねぇんだよ」
怒りと悲しみの織り交ざる失意の際に立った瞳を見て、モーグは両手を握り締めた。
「ごめん、ヘロン。ありがとう。今度こそは、決勝に相応しい試合にしてみせる」
「当たり前だ、ボケ。遅せぇわ」
あくまでぶっきらぼうなヘロンに苦笑して、モーグはヘロン、レベクに続いて近くに居たマリアンヌを見る。
モーグの視線に気が付いたマリアンヌは「あー、はは」と曖昧に笑って、傍らに立つハンソーネの左肩に右手を置いた。
「アタシはモーグの所にハンソーネが来ると踏んで見舞いに来たんだ。悪いね」
言って、マリアンヌはハンソーネの左肩をぽんぽんと叩き、口の端を上げて「でも」と付け加えた。
「そのー……傷、か? それ」
言い淀み乍らモーグの顔や右手を指差すマリアンヌに、モーグは右腕を持ち上げて動かしてみせる。
「そんな感じです。治すのは大変みたいで」
「ふーん、そうか……ま。傷だらけになっても戦意を失ってないのは気に入ったよ。ちょっとだけ応援してやる」
「ちょっとだけ……」
「当たり前だろ、アタシはハンソーネの腕を買ってる。悪いがモーグ、アンタは負けるぜ」
人差し指を突き付けるマリアンヌに言われ、モーグはハンソーネに視線を移した。
ハンソーネの顔、その左目の周辺は火傷とも裂傷とも言える傷痕が残っていたが、モーグにとっては些細な変化でしかなく、眉ひとつ動かない。
「準決勝、ハンソーネさんが勝ったんですね」
ぽつりと零したモーグに、ハンソーネは頷く。
「俺もハンソーネが勝つに賭ける!」
口を開こうとしたハンソーネの前に飛び出してきたのは、タロウだ。
タロウはにっかりと白い歯を見せて笑う。
「でも、お前も負けてないと思うからなぁ、良い試合になるんじゃないか? プレスティアとの試合でも根性あるなぁって思ったし。なっ」
タロウは話し終え乍らも、一歩退いた位置に立ち尽くすプレスティアを振り返った。
突然水を向けられたプレスティアは一瞬呆然として、次いで息を呑んだ勢いで噎せ込んだ。
途端にその場の全員が心配そうな顔をして、ある者は近寄り、ある者は覗き込む様にして安否を窺い、ハンソーネはプレスティアの背を摩る。
「そうだな。並の者なら、プレスティアの魔法を真面に食らった時点で時間の問題だっただろう。……だが」
プレスティアが余韻の空咳を繰り返す中、ハンソーネは中空を見詰めて話し出し、モーグに視線を移した。
「モーグ。絡繰は分からないが、君の自己を補助する魔法……プレスティアの水泡に襲われたあの瞬間に、解除していただろう?」
ハンソーネの推察に、モーグは目を見開く。
彼女は的確に当時のモーグの判断を読み取っていた。
ロバトの信号増幅魔法――人間の神経伝達速度を引き上げる魔法は、体力を、そして酸素を多く消費する。
それに対し、プレスティアの水泡を操る魔法は相手の呼吸を阻止出来る。
であれば、モーグはロバトの魔法を解除し、一瞬でも長い継戦能力が必要だと判断していた。
その一瞬にして咄嗟の判断を読み切られ、更には蓄積されている事を知り、モーグは驚愕し、そして人知れず、音も無く歓喜した。
「その通りです。俺はあの時、呼吸と同時に魔法を封じられていました」
強大な対戦相手を前にして笑うモーグに、五人分の奇異の目が向けられ、ハンソーネは笑い返す。
「君のその勝利への渇望、その原動力を聞き出したい所だが、今聞くのは無粋だな。……決勝戦の後、歓声の合間に伺うとしようか」
不敵な笑みを浮かべる二人の間に、タロウとレベクが殆ど同時に飛び出した。
「それじゃあ俺らは聞けねぇだろ!」
「僕も知りたいです! モーグさんとハンソーネさんの強さの理由!」
口々に言う二人に、ハンソーネは笑い声で答える。
「そんなに気になるなら剣闘舞曲祭が終わった後にでも聞けばいいさ。モーグを労うついでに、そうだな……『惜しかったね』と付け加えて」
快活な笑顔を挑発的な笑みに変化させたハンソーネと目を見交わして、モーグもまた奥歯を噛み締めて笑った。
「いいですね。どっちがそう言われるか、楽しみだ」
モーグとハンソーネが不可視の火花を散らし、戦意を燻らせ、そこに低い咳払いが響いた。
「見舞い客諸君、そろそろ観客が待ち倦ねている頃だぞ」
通路の真ん中で語らう七人を見回して顎髭を撫ぜる声の主は、フランゲーテ魔法国王、其の人だった。
瞬間、ハンソーネが姿勢を正して道を空け、モーグ以外の五人もそろそろと身を引く。
道の空け方に迷い、勢い余って壁に肩をぶつけたモーグは、腰を折って王に頭を下げた。
「あっ……へ、陛下、すみません、長話になってしまって」
そう言うモーグに、王は微笑する。
「構わん。刃を交わした者達が仲良く語らう。理想的な光景だ」
王は満足気にそう言って、通路の脇で王国式の敬礼をしたまま待機するハンソーネを見る。
「ハンソーネ・トロンバ。私が此処に呼んだ意図は分かったか?」
王に問われたハンソーネは、ほんの少し視線を彷徨わせて、やおら王の瞳を見詰め返す。
「陛下の本意は、それを考えさせる事、それ自体にあると愚考致します。――ただ、私は今此処に来て、陛下にお招き頂けて、本当に良かったと思います。……この闘技場には、戦いがあっても戦は無い。兼ねてより抱いている『争いの無い世界』という理想郷。その先駆けが、忠を尽くすこの国にあるのだと再認識しました」
ハンソーネの話に、王は重々しく頷く。
王は、深い黄昏色の瞳を。ハンソーネは、淡い朝焼け色の瞳を。
夫々見詰め返し、王の瞑目によって打ち切られる。
「良い考えである。確とこの胸に刻もう。『争いの無い世界』を」
そう告げて、王は外套を揺らめかせる。
王の歩む先では、敬礼をしたまま道を空けて待つアルトと、直立不動で壁際に立つ老爺――ヨハンが居た。
「ヨハン、変わり無いようで何よりだ。また会う事が出来て嬉しく思う」
王の言葉に、ヨハンは薄く笑って頭を下げる。
「いえ、隠居してからは随分と体を悪くしました。今までの様にとはいきませぬ」
「馬鹿言え、それで漸く人の枠に入るかどうかだろう」
「ははは、老骨になんと手厳しい」
「……お前の弟子は」
「陛下、お話を遮る無礼をお許し下さい。――あれは己で考え、己で人の道を歩める者だと、そう判断しております。故に、この場所へ送り出しました」
ヨハンを見詰め、王はゆっくりと頷いた。
「信じよう。お前の目、言葉、そして、お前の弟子を」
王の言葉により深く腰を折るヨハンを見て、王はアルトへと視線を移す。
「アルト、モーグの武器はヨハンが持って来ている。私の許に戻れ」
「はっ」
短い返事と共に、アルトは通路を行く王の後ろを着いて歩き、王と三人の近衛兵士の姿が見えなくなると、通路には幾つかの吐息が響いた。
「あーっ、緊張したぁ〜」
真っ先に声を上げたのはタロウだ。それにレベクとプレスティアが頷き、ヨハンは七人の――モーグの許に歩み寄る。
そこで初めて、モーグはヨハンが右手に棒状の物を包み込む布――おそらくは、応急処置をしたロバトを持っている事を知った。
「さて、王陛下から直々に急かされては、お前達も遅れる訳にはいかんだろう。モーグ、ハンソーネ」
歩き乍ら、ヨハンはモーグとハンソーネに目を遣る。
自分の倍以上は生きているであろう老体が、滑らかに歩き、それでいながら重心が一つも振れていないのを見て、ハンソーネは驚愕に目を見開いた。
その反応を気にも留めず、ヨハンは手にしていた物の布を解き始める。
「モーグ。お前同様、ロバトも損傷が激しかった。剣身は幅を詰める程砥がねばならず、柄は別物に取り替えてある。護拳部分の盾も同様……」
室内灯の光を受けて、煤や汚れの目立つ、正に急拵えのロバトが鈍い鉄色の輝きを湛える。
モーグはそれに自身の状態を重ねて、ヨハンに差し出されたロバトを満足気に受け取った。
「なんだ、思っていた反応とは違うな」
不格好になった愛剣を手に微かに笑うモーグを見て、ヨハンは驚きと呆れ混じりに言う。
そんなヨハンに、モーグは袖を捲り、右の前腕を見せた。
電撃傷と体の変質が最も激しい右腕は、ある種の昆虫の様にも、甲冑を着込んでいる様にも見える。
「気に入ったんです。今の俺と似てるから。……嬉しいっていうのもあるかもしれません」
モーグの右手から双眸へと視線を移し、ヨハンは一つ頷いてからハンソーネを見た。
ハンソーネはヨハンの視線を警戒と緊張の狭間の面持ちで受け止めると、騎士団式の敬礼を取る。
「ヨハン・アイゼナハ殿、『五十年英雄』のお噂は予々伺っております。一騎士として、お会い出来て光栄でございます」
「止してくれ、あれから十余年も経つんだ。良い後継人が居るだろう」
恥じ入る様に右の手の平を見せるヨハンに、ハンソーネは微笑む。
「剣は手放せない様ですが」
言われ、ヨハンは己の右手を見て吹き出した。
「未練がましいだけだよ」
「教えの為の剣を振るっているのでしょう? 現にこうして剣闘舞曲祭の決勝戦へ進む弟子を鍛え上げられた。王陛下が名残惜しむのも頷けます」
「まったく……お喋りな師団長殿だ。――どうか、不肖の弟子の鼻っ柱を折ってやってくれ」
「ちょっと、師匠!?」
「お前はまだ若い。もっと失敗しなさい」
「そ、そんな……!」
それより先の言葉を失うモーグに、その場の一同が笑った。
「さあ、お二人さん。爺の長話に付き合わせて済まないね。そろそろ行っておいで」
一頻り笑い、ヨハンの言葉に二人分の返事が響く。
モーグとハンソーネは互いの目を見て、それ以上の言葉は交わさずに、先んじてハンソーネが歩き出した。
モーグはそれを見送り、改めて見舞い客の六人に向き直る。
「皆、来てくれてありがとう。決勝戦、良い試合を見せるよ」
それだけ言って、モーグは返事も待たずに歩み出す。
一人で歩く通路で、モーグは等速で鼓膜を震わせる靴音を噛み締めた。
***
五時区画の通路を後にしたモーグは、念の為と南側の選手控え室に足を向けた。
運営委員会の誰かを待たせているのではないか、というぼんやりとした懸念による行動は、緯道から経道へ折れ曲がった先に人影として実を結ぶ。
選手控え室へ続く扉に向かって、準決勝戦でモーグをレベクとの試合に送り出してくれた五十代前後の男性が、顔を俯けて立っていた。
「あ、あの!」
名前を聞いていない事を思い出し乍らモーグが呼び掛けると、男性は顔を上げ、驚きから柔和な笑みへと表情を変えていく。
「モーグ選手……もう、よろしいのですか」
男性の言葉に、モーグは敢えて右手で頬を掻いた。
「痕は残りましたけど、元気ですよ」
苦笑するモーグに、男性は肩の力を抜いていく。
ただそれだけの動作で、モーグは心からの安心を覚えた。
「あの、すみません、お名前を伺っても良いですか?」
モーグに問われ、男性は目を丸くしてから微笑む。
「アントニオ・ストラディバリと申します。亡き祖父の名をそのまま受け継ぎました」
男性、アントニオの名前と苗字を口中で繰り返し、はたと気が付いたモーグが、今度は目を丸くする番になった。
「アントニオって、あの、魔剣作家の!?」
モーグが手にしていた『ロバト』や、ハンソーネの『トロンバオネ』を初めとして、フランゲーテ国に普及しているマギニウム製武器の開発者を、屡々『魔剣作家』と呼ぶ事がある。
アントニオ・ストラディバリは、その中でもマギニウムの活動を弦や鍵盤等の始動器による振動で繊細に魔法を制御する方式――演奏式魔法の開発で歴史に名を残している。
モーグの驚きを見て、アントニオは顔の前で手を振ってそれを否定した。
「それは祖父の祖父の話です。ストラディバリ家は長男が祖父の名を継ぐ決まりがありまして」
「な、なるほど……」
そうは言われても簡単には引いてくれない興奮の最中、モーグの脳裏に刃を交えた一人の青年の顔が浮かび上がる。
「でも、そうだとしても、良ければ後でレベク選手と話してあげてください。きっと、何かの縁ですから」
笑顔で言うモーグに、アントニオは苦笑して頷いた。
「畏まりました。何かの役に立てると良いのですが……」
「会うだけで良いんです。俺の我儘だと思いますけど――あ」
言いさして、モーグは悪戯っぽく笑う。
「じゃあ、俺が優勝したら、俺の我儘を叶えてください。アントニオさん」
モーグの提案にアントニオは笑った。
「良いでしょう。その方が、張り合い甲斐があるというものでしょうから」
「はい! それと…………あの時は俺、自分に負けました。だから、こんな傷痕を負って、だから……」
顎を引き、モーグは右手首の腕輪を摩る。
微細で複雑な凹凸を指先に感じて、モーグはゆっくりと顔を上げた。
「今度こそは負けません。俺は、自分にも、ハンソーネ選手にも、負けたくない」
瞬間、遠くから歓声が湧き上がった。
前哨戦で決勝までの時間を稼いでくれたのだろう。それを察して、モーグは歩き出す。まだ先の見えない通路を。
「アントニオさん、準備は出来てます。案内をお願いします」
***
決勝戦は、司会者の紹介よりも先に選手が入場した。
同時に歩み出したモーグとハンソーネに湧き上がりかけた歓声が、どよめきに変わる。
「北側、我が国の騎士師団が一つを率いる細剣の使い手、王華の騎士、ハンソーネ・トロンバ!」
今までの紹介と異なり、凛然とした声で紹介を受けたハンソーネは、足を止めて騎士団式の敬礼を見せる。
多大な拍手と歓声があれども、満場一致とはいかず、観客の視線は変貌したモーグに集められていた。
「南側、西部剣闘技会の優勝者であり、期待の新星。準決勝での負傷を乗り越えて、西座の戦士、モーグ!」
敬礼を解いたハンソーネを見詰め、紹介より一瞬遅れてモーグが大きく両手を振ると、会場内は割れんばかりの歓声で満たされた。
その声や拍手の中に安堵の感情を読み取って、モーグは自然と笑顔になる。
「皆さん、ありがとう! 俺は大丈夫です! 元気です! だから――」
息を吸い、モーグの声を聞いて静まり返る会場内に、隅々まで響く様に、腹に力を込める。
「最高の剣闘舞曲を送ります! よろしくお願いします!」
モーグの言葉に、三度目の歓声が湧く。
観客席からは、モーグの名は勿論、ハンソーネの名を叫ぶ声もあった。
剣闘舞曲とは、人を殺す為の戦いでは無く、また決められた勝敗が待つ訳でも無い、あくまで公正な競技として、暗黙の規則の下で勇姿を示す二人の戦士が送る『試合』を指す。
そこに巻き起こる駆け引きと物語を戯曲に喩えて、太古を生きた誰かが『剣闘舞曲』と呼んだのが始まりだ。
それ故に、人々は闘技場での人死にを嫌い、傷痕を悔やみ、しかし骨身を震わせる戦いを求める。
中央都市で開かれる剣闘舞曲祭は、不定期的に催される。
観客が求め、それに相応しい選手達が揃った時、その時にだけ。
七日間、実に九十九試合。正規選手は百名。前哨戦を初めとする『幕間』を含めればそれ以上、多くの戦士達が死力を尽くした果てに、最後の二人が立った。
開始線を前にして、モーグとハンソーネはどちらからとも無く足を止める。
「先程、陛下からお前が魔法を封じた旨を伺った」
モーグの瞳を真っ直ぐに見詰めて、ハンソーネは瞼を下ろし、決意の瞳を露にする。
「だが、お前が手加減を望まない事を私は知っている。そういう人間には出来ない戦いを、モーグ、お前は見せてくれた」
真剣に語るハンソーネに、モーグは頷いた。
「よろしくお願いします」
それを聞き届けて、ハンソーネから開始線に着く。
モーグもそれに倣おうとして、半歩進んでから足を止めた。
「そうだ、通路で言われたこと、まだ覚えてますからね。すっごく悔しかった」
モーグの言葉にハンソーネは薄く笑い、直ぐに笑顔を吹き消す。
モーグが開始線に着いたからだ。
「両者、準備は良いか!」
審判員の声に、二人が頷く。
「決勝戦、開始!」
***
審判員の声と共に、両者は同時に駆け出した。
一秒の後に彼我の距離が零になり、抜き様の斬撃が衝突する。
黒金と白銀の剣閃が舞い踊り、息付く暇も無い猛攻をぶつけ合って、八合の後にハンソーネが一歩退き、モーグの剣が空を切る。
そこに、トロンバオネが伸びた。
音を置いて迫り来る細い剣尖を、モーグは身を捩って躱し、ロバトの一回りも小さくなった護拳盾で弾き飛ばす。
的確に打ち込まれたモーグの打撃でハンソーネは体勢を崩し、モーグは拳を振り抜いた体勢のままロバトをくるりと回して逆手に持ち変えて、殆ど背面からの刺突を放った。
モーグが繰り出した刺突は愛剣の重量の変化によって僅かに狙いを逸れ、ハンソーネの腰鎧に当たり、モーグは急いで剣を引き戻す。
その隙を逃さずにハンソーネは細剣を突き出した。
左肩、右脇腹、左眼、目にも留まらぬ連撃を一息で見舞うハンソーネに舌を巻き乍らも、モーグは全て回避してのけ、順手に持ち直した剣で下段から斬り上げる。
ほんの一センチ、モーグの鋒はハンソーネに届かないまま空を切って微風を起こすに留まった。
冷静に退るモーグが先刻まで居た位置に、刺突。
肉体と愛剣の変化がこれ程までに響くのかと再認識して、モーグは奥歯を噛み締めた。
その一瞬にも満たない逡巡を見破ったハンソーネが、大きく跳び込んでモーグの腰を穿ちに来る。
冷や水を浴びせられた思いでモーグはその鋒を護拳盾で受け止め、右側に流す。
考える時間が欲しい。負けたくない。右手首への斬撃。あんな事にならなければ。左鎖骨への刺突。刺突剣に対する対抗剣術。あと一秒あれば。足元への斬り払い。走り乍らなら。大腿筋への刺突。思考が溢れている。刺突、刺突、刺突。攻めなければ。頚椎への斬撃。負けたくない。
思惟の嵐に差し挟まれる攻撃を躱し、止め、弾き、モーグは口の端が上がるのを感じた。
(こんなに強い人の上に立ちたい。勝ちたい。負けたくない)
鮮烈な想いに突き動かされ、モーグは迫る刺突を弾くと共に、剣身でハンソーネの剣を巻き込んだ。
制御を失った二振りが弾かれ合い、モーグはそれを全力で引き寄せて回転する様に斬撃を繰り出す。
ハンソーネはそれを左の篭手で殴り、打ち落とした。
勢い余って、みしりと地面を抉る剣に冷や汗をかくモーグの首に、トロンバオネの凶刃が伸びる。
一も二もなく、モーグはその刃を右拳で受け止めた。
ごりり、と嫌な音がして、モーグの外骨格状に変貌した右手、その人差し指と中指の間に細い刃が突き立つ。
ぱらぱらと砕け落ちた破片を追って赤黒い血が流れ出し、モーグは頭の中で火花が爆ぜた思いがした。
びょうと冗長な風の音が聞こえ、右手の破片が木の葉の様に緩やかに舞う。
引き伸ばされた時間の中で、傷痕に眠るロバトが、黄金色に拍動した。
「駄目だ!」
絶叫と共に等速の時間が訪れて、モーグは足捌きを誤って転倒した。
巻き上がる土埃の中、モーグはすぐに迫り来るハンソーネを視界に捉え、左手に持つロバトで応戦する。
想像を絶する膂力で打ち下ろされた刃が頬を撫ぜ、鍔迫り合うままにハンソーネが顔を近付けた。
「なんだ、降伏する気か」
「違う。貴女は強い――けど」
伸し掛るハンソーネの力を受け流し、モーグは彼女から距離を取る。
間合いから外れたハンソーネは既に体勢を整えており、モーグは脳裏に浮かんだ言葉をそのまま舌に乗せた。
「力への誘惑ほどじゃない! 俺と貴女は互角だ!」
叫び、刃を向けるモーグに、ハンソーネは酷薄な笑みを浮かべた。
「そうだと良いな」
ハンソーネが駆け出す。一歩、間合いまではあと二歩。いや――
鋭い呼吸音がして、細剣が伸びる。
モーグはそれに合わせて駆け出した。
細剣の腹を左の前腕で弾いて、その力を利用した袈裟斬り。
決死の閃きは、しかし無情にも躱しきられる。モーグの左腕を軸にして踊る様に回転したハンソーネが、その後を追うモーグの瞳目掛けて刺突を放つ。
モーグは反射的に瞑ろうとする瞼を戦意で捩じ伏せ、紙一重で避けるべく首を逸らした。
それを見て、ハンソーネの右手が蠢く。
――持ち替えた。
そう気が付いた時にはトロンバオネの刃がモーグの喉笛を見据えていて、ハンソーネが腕を引かんとしている。
強烈な緊張感と恐怖心をたっぷりと味わわされた一瞬の後に、モーグは歯を食い縛って腰を落とした。
顔面に迫る刃が右頬を裂き、頬骨と歯に食い込んで止まる。
モーグはその機を逃さぬ様に、ハンソーネの右手、細剣を握るそれ自体を鷲掴みにした。
鈍痛を訴える歯を食い縛ったまま咆哮を上げ、ロバトを振り下ろす。
ハンソーネは、モーグの想像通りに左の拳を握り込み、振り下ろされる刃を睨み付け乍ら構えた。モーグの剣が迫り来るその一瞬で、ハンソーネは篭手に護られた拳を放つ。
放たれた拳はロバトと擦れ合って火花を散らし、次いでハンソーネの肘当てで弾かれる。そのまま弧を描いて進む左拳は、モーグの肩口、右の鎖骨を的確に打ち据えた。
弾かれた剣と肩への打撃、二度の衝撃でモーグの体勢は大きく崩れ、ハンソーネの右手を掴んでいた左手も振り解かれてしまった。
だが、ハンソーネはそれだけでは止まらなかった。
体勢を立て直そうとするモーグの膝を蹴り、それを踏み台代わりにしてモーグの顎先を蹴り上げる。
舞う様に滑らかな攻撃の繋がりで、モーグは為す術なく脳髄を揺らされ、前後不覚のまま地面にへたり込む。
殺される。
単純な予想が頭に浮かび上がって、モーグは目の前に立つハンソーネの影を見た。
まだ青い空を背に、モーグの首を掻き斬るべく細剣を振り被るハンソーネ。
平等に流れる時間の中、風を斬る音と同時に、モーグはロバトを押し出す様に開いた右手を突き出していた。
激しい金属音が轟いて、モーグの右手に愛剣の柄と白銀の刃が握り込まれる。
外骨格状に変化したモーグの右手は、刃を握っても簡単には切れず、削れる程度では痛みを感じ無い。
要するに、この外皮は鉱物に近いのだ。
先の右手の負傷は『刺突を真正面から受けたから』劈開した。では、斬撃をロバトの柄で受け、一度衝撃を殺してから握れば――。
思惑通りにトロンバオネを掴み、関節部の隙間で挟み込んでより強固に捕らえる。
押せども引けども動かないトロンバオネに歯噛みしたハンソーネが、至近距離で更に踏み込む。
(また篭手で打撃か!)
胸中で毒突いたモーグが右腕を捻り、ハンソーネの左拳が宙を打つ。
剣も拳も封じた。ならば次は――
「で、押し留めて、それだけか? モーグ」
視線だけで刺殺されそうなハンソーネの睨みを受けて、モーグは冷や汗が吹き出すのを感じた。
「いや、まだです……!」
勇気を振り絞り、モーグはハンソーネの右手を左手で掴む。
トロンバオネの白刃を握る右手は僅かに緩め、滑らせる様に鋒の方向へ。
モーグはトロンバオネを盾にしつつ、剣身を折るべく力を込めようとした。
「ふッッ」
モーグが力を込めた一瞬。その隙にハンソーネの鋭い吐息が響き、トロンバオネの剣身が伸びる。
ジャッ、とモーグの外骨格と刃が擦れる音がして、拘束から解かれた細剣が踊る様にモーグの右肩に振り下ろされた。
次いで、重たい金属が地面に落ちる音と、ぼとぼとと小さくて重い物の落ちる音が四回。
四本の指の付け根と右肩の痛みに呻き、ハンソーネの右手を手放したモーグは、遮二無二右肩に沈み込もうとする細剣を振り払う。
落ちたロバトを拾おうにも、ハンソーネが先んじてロバトを跨いで剣を構えている。
苦悶の声を漏らし乍ら、モーグは距離を取った。
ハンソーネが直ぐさま動かない事を確認し、ベルトを外して右前腕を乱暴に締めて止血する。
「モーグ、お前の剣は落ちた。気高き降伏か、獣の悪足掻きか、選べ」
細剣と双眸。三つの鋒がモーグを睨む。
戦闘の疲れを感じさせない凛とした立ち姿を見詰め乍ら、モーグは奇妙な感覚に襲われていた。
時間が、モーグの体感する時間が幾度も伸び縮みしている。
何倍にも加速して、戻り、また引き伸ばされる。
ちらりと見た右腕が、外骨格の部分が――いや、左手の電撃傷も、黄金色の輝きを拍動させ、魔法を相殺する筈の腕輪までもがそれを受けて七色に拍動していた。
(ロバトは、剣の名前だ。では、俺の中に流れ込んだマギニウム製の柄は、もうロバトとは言えないのだろうか……)
それと同時に(今はそんな事を考えている場合じゃない)と叫ぶ自分も居たが、モーグはそっと目を閉じて、体の中で脈打つ何かに意識を向けた。
(拍動はかなり速い。俺の心臓と同じだ。疲れと興奮で、全身に酸素を送り込もうとしている)
血流を全身に感じ、その中に混ざるロバトに集中する。
「モーグ! 意識を失ったか!」
ハンソーネが叫んだ。
それに答えるべく、同時に脈拍により集中するべく、心臓の辺りに左手を当てる。
(ロバト、お前は何処を目指す? 傷口か? それとも)
意識は戦意だけを残し、両手を中心に研ぎ澄まされていく。
(だめだ。戦うのは腕だけじゃない。全身)
絞られかけた焦点を広く取り、全身へ。
その中でも、両手と目には強い意志を残して――。
どこか遠くで、氷が割れる様な音がした。
「やめろ! 戻れなくなるぞ!」
数メートル先から歪な足音が響く。
ハンソーネが走って来る。
(それでも。例え悪魔の力を借りても、俺は、負けるのだけは嫌だ。まだ出来る事がある筈だ)
断続的に、何かが罅割れる音が鳴る。
『お前が行う行為とは、全てが摂理に非ず。また全てが摂理に在る。そう心した上で、ロバトを振れ』
足音は、すぐそこに。
「ロバトなら此処に居る!」
剣を打ち合わせる音が、闘技場に鳴り響いた。
モーグの全身――空いた傷口から血が滲み、トロンバオネの刃がモーグの首に触れかけて押し返される。
モーグが失った四指の付け根から、トパーズと黒曜石を織り交ぜた様な剣が伸び、トロンバオネと斬り結んでいた。
「モーグ……お前…………!」
悲痛な声を上げて、ハンソーネが跳び退った。
モーグはそれを追い、横薙ぎの斬撃を放つ。
ハンソーネはモーグの刃を打ち落とすべく、垂直に剣を振るい、衝突の瞬間、モーグが手首を捻り持ち上げる。
モーグによって鍔迫り合いの形に持ち込まれたハンソーネは、両手で持つには短い柄に左手を添え、両足を大きく開いて踏ん張った。
「そうまでして何がある! お前が戻って来れたのは偶然だ! 命を粗末にするな!」
「あの時とは違う! 剣の振り方を知った、ロバトが使い方を教えてくれた!」
「冷静じゃないんだ、お前は……!」
体重をモーグの剣に掛けたまま、ハンソーネは剣を軸に回し蹴りを放つ。
頑丈な鉄靴を纏った蹴りが、モーグの外骨格状に変化した左手と衝突し、甲高い音を立てて弾かれる。
「負けたくない! 負けるのは嫌だ!」
弾かれるままに退ったハンソーネを追うモーグの斬撃が、細剣に逸らされる。
「死ぬぞ! お前は今正に、人として死のうとしている!」
二度目の斬撃も逸らして、ハンソーネは直線の刺突を放った。
モーグの腹部に突き立つトロンバオネからは、一つも手応えを感じ無い。
「違う! 俺は今、魔法技術の先に居る! 剣と共に在る!」
叫び、右手を振り被るモーグからハンソーネは距離を取る。
「その姿がか……」
苦悩に満ちた声を上げて、ハンソーネは再び構えた。モーグは既に距離を詰めている。
大上段から振り下ろされる一撃を細剣の柄で受け、瞬間的に逸らす。
力と技術が、息付く暇も無い膠着を生み出していた。
「負けるのは怖いんだ。死ぬより。――敗北感はずっと染み付く!」
剣戟の最中、モーグは血と涙が混ざった滂沱を流す。
それを見て、ハンソーネの表情が変わった。
苦悶から決意へ、幾つ目とも知れない斬撃を払い除け、心臓を狙う刺突の最中、ハンソーネは鋭く息を吐いて僅かに軌道を逸らす。
心臓から狙いを変えた鋒が、モーグの左上腕を貫く。
「私が、お前の未練を断つ」
決意を声に乗せて、ハンソーネは素早く剣を振り抜いた。
モーグの重心が大きく傾く。
失った左側にふらついたモーグが、そのまま駆け出した。
ハンソーネの背後を取ろうとしたのでは無い。モーグの行く先は、落とした剣。
剣と化した右手が瞬時に外骨格状の人の手に変わり、モーグは転がり乍ら黒ずんだロバトを取り戻した。
駆け出すハンソーネを見据え乍ら、モーグは冷静に右腕のベルトを外して、右手と歯で左腕の止血をする。
それだけの余裕を与えた事に、ハンソーネは歯噛みした。
「モォォーグ!」
怒りとも悲しみともつかない叫び声が轟く。
駆け乍ら打ち出された斬撃をロバトの護拳盾で受け止め、それを軸に跳び上がるハンソーネを追ってモーグは振り向く。
そこに、横薙ぎの斬撃。
モーグはそれを咄嗟に受けてしまい、ロバトの黒い刃が砕け散った。
息を呑むと同時に、モーグの右手からロバトが伸びる。
右手と繋がる刃を形成して、モーグはそれを認識するや否や、刺突を繰り出した。
ハンソーネの脇腹をモーグの剣が貫き、ハンソーネはそれに、敢えて前進した。
鍔まで通ったロバトを掴み、ハンソーネが細剣を振り上げる。
「『魔法』の意味を知れ。モーグ。そこからだ」
優しく呟き、ハンソーネはモーグの右腕を肩口から断ち斬った。
「そこまで! 勝者、ハンソーネ・トロンバ!」
***
医療班に囲まれて、モーグは呆然と赤に変わろうとする空を眺めていた。
「モーグ選手、聞こえますか」
壮年の男性――医療班長がモーグの顔を覗き込み、モーグはその問いに頷く。
「貴方の両腕は、マギニウムの変換能力によって完全に損なわれました。現代の医学で出来る事は、傷を塞ぐまでです」
それを聞いて、モーグは頭を起こして両腕を探した。
左腕は肘の手前、上腕の半ばまで。右腕は肩までで、そこから先には何も無い。
見え無い筈の地面だけが見える。
「しかし、マギニウムを使った、思い通りに動く義肢は存在します。貴方が望むのであればですが……」
躊躇いがちに訊く医療班長に、モーグは沈黙したまま頭を下ろす。
今はもう、何も考えたくなかった。
「とにかく、立ち上がれるようになるまでは治療致します。そこから先は――」
言いさして、医療班長が近付く足音に振り向く。
「義手を付けろ、モーグ」
先に治療を終えたハンソーネが、モーグを見下ろしていた。
血と土汚れ以外には決勝戦の前と何一つ変わらないハンソーネが、強い光を宿した瞳でモーグを見詰めている。
「お前にはそうする必要がある。お前は敗北の恐怖しか知らないんだ。……敗北は、そこで終わりじゃない。
――だからこそ辛く、怖いと言ったお前の気持ちは分かる。しかし、だからこそ、敗北の後には立ち上がらなくてはならない」
ハンソーネはそこで言葉を切り、モーグの傍らに膝を着いた。
篭手を外した手でそっとモーグの頭を持ち上げて、消えた両腕を今一度見せる。
「敗北に打ち勝つ方法は、未然に防ぐだけじゃない。負けた後に、生き延びた先に、傷痕を埋めて新たな力とする方法だってあるんだ。……お前が見せてくれた様にな」
見上げる先で、ハンソーネは柔らかく微笑んでいた。
視界が滲み、ハンソーネの姿も揺らぐ。
モーグはそっと瞼を下ろして、浅い呼吸を繰り返した。
「ハンソーネさんは、どうしてそこまで、強いんですか」
思わず零した言葉に、ハンソーネは暫しの間沈黙し、軈て「どうしてかな」と口火を切る。
「やっぱり私も、負けるのが嫌だからかな。だから、負けた事をそのままにしたくなくて、泣いて、考えて、血の滲む努力に全て預けて……色んな人に教わって、今の私が居る」
モーグの頭が下ろされ、細く固い指が額を撫ぜる。
「お前は、どんな風に強くなれるかな。それを楽しみにしてるよ」
金属が擦れ合う音がして、土を踏む音が聞こえた。
「邪魔をして済まなかった。治療を続けてやってくれ」
「お話の間に終わりましたよ」
「……流石は我が国の医師だ。ありがとう」
再び開いた視界に、ハンソーネの後ろ姿が見えた。
その足取りは僅かに重く、隠し切れない疲労が見て取れる。
モーグはハンソーネを見送り、医療班長に目を遣った。
「もういいかい? 手を貸すよ」
それだけの動きでモーグの意志を汲んだ医療班長は、モーグの肩に腕を回して立ち上がらせる。
よろよろと立ち上がるモーグに、歓声が湧き上がった。
戦士の帰還を喜ぶ大勢の声。
その曲はどの試合よりも大きく、長く、閉幕の時を惜しむ様に続く。
思い思いの声に背を押されて、モーグは戦場を後にした。
終
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?