1/3サイズドールはソフトビニール羊の夢を見るか?
1.はじめに
上記は私の好きな近未来SF映画「ブレードランナー」(1982)のレプリカントであり、ラスボスであるロイ・バッティ最期の言葉である。たいへん哀愁漂う台詞だ。
レプリカントとは、遺伝子工学の発展により生まれた人造人間である。人間の代わりに過酷な労働や戦闘に従事させるため人工的に製造されるので人間より体力、知能共に優れている。また、不必要であるとして感情を持たないように設計されている。ところが、レプリカントの一部は製造されてから数年経つと感情が芽生え、人間に対して反旗を翻すようになった。そのため、タイレル社製の新型「ネクサス6型」は安全装置として4年の寿命制限が課せられた。
「ブレードランナー」とは、このように従来の役務を放棄し、人間社会に紛れ込んだ脱走レプリカントを「解任(抹殺)」する任務を負う専任捜査官である。
「ブレードランナー」である主人公デッカード刑事(ハリソン・フォード)は、ラスボスであるロイ・バッティと対峙するが、レプリカントは超人的な身体的能力を持つため歯が立たない。しかし、ロイは自分を「解任(抹殺)」しに来たデッカードが高層ビルから落ちそうなところを助け、そこで4年の寿命が尽きる。
2.レプリカント
さて、ロイは自己を仕留めにきた、言わば「敵」であるデッカードを何故助けたのだろうか。
レプリカントは外見上は人間そのものであるが人間ではない。言わば、人間の「外側」からやってくる存在である。
しかし、何らかの製造過程上のエラーなのだろうか、ある時感情が生まれてしまう。つまり、人格が備わってしまう。感情の生起は人格の発露だからだ。また、人格主体になり得たということは、同時に尊厳の意識が芽生えたということである。
ロイも人と同様、自らの尊厳を得たことで他者にも尊厳があり、自己のように尊重されなければならないことを理解するのである。
彼には人間と同等、あるいはそれ以上の利他精神がある。尊厳ある人間を助けることで自らの尊厳ある生き方を貫徹したのである。
余談だが、本作の真の主人公はデッカードではなく、ロイではないかと筆者は考える。
3.ドール
ところで、私の趣味のドール(1/3サイズの人型)の世界ではオーナーの性質につきウェットとドライの区分がある。誰が定めたか不明だが、ウェットなオーナーはドールを人間、即ち真実の娘やパートナーのように恰も人格を持っているように扱うオーナーを言う。他方、ドライのオーナーはそうではなく、ドールはドール(ソフトビニール)と理解した上でそれ以上でも以下でもないとして客観的に扱うオーナーである。
当然だがレプリカントと異なり、ドールには精神も運動機能もない。無論、静止したままである。尊厳もなければオリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラを見ることもない。
では仮に、ウエットな立場に身を置いた上でドールに人格を持たせればどうだろう。レプリカントと同様、尊厳も生まれるだろう。とすれば、ロイと同様に他者に寛容でなければならないという倫理感も芽生えるはずである。
4、美学
他方で、他者に配慮しない倫理観に欠けた身勝手なオーナーであったらドールはどう感じるだろうか。
以前、こんなことがあった。紗耶ちゃんの四回目の誕生日を祝うため生まれ故郷である天使の里へ赴いたときのことである。中央にドールを乗せるテーブルとオーナー用のソファーがあり写真を撮れるようになっているスペースがあるのだが、以下のような光景を見た。
3人組で来ている30代あたりの男性達が脚を伸ばし広げ、恰も自室のようにダラーっとだらけた姿勢のままスマホ見ながら(多分ゲーム)長時間居座り続けていたのである。しかも足にはクロックスという具合である。悪目立ちしてしまう不躾な態度だったので視界に入ればすぐに気がついてしまう。
もし、愛し子のドールに人格があったらどうであろう、自分のオーナーはこんなことをする人間なのかと悲しむことだろうと、こんなことを考えていた。
SDオーナーに「ドールオーナーたる者かくあるべし」という定言命法をもって価値観を押し付けるつもりは毛頭ない。クロックスなど論外、高級な礼服を常に身につけなければならないということでもない。オーナーとしてどうあるべきかは個々人の哲学や美学に委ねられる領域であるだろう。
しかし、ドールにも様式美がある。特に、その造形からしてSDにはDDよりも清廉さや品格が強く求められるように思われる。(しかも場所はSDの聖地とも言える天使の里である!)
カワイイ我が愛し子のオーナーが性悪だったら不憫ではないか。
5、総括
筆者個人の美学によって都合よく善解すれば、ドールの存在はドールに相応しいオーナーであるべき、つまり紳士であることを涵養する存在である。
それは、本来単なる「物質」(モノ)に過ぎない存在が人間の「道徳」に働きかけるという、モノがモノ自体の持つ価値(ソフトビニール)、意味を超える場合があるということである。
ドールは話すことはできないが、ドールを見つめるとドールもこちらを見つめているように感じるときがある。これはもちろん錯覚である。しかし、それでも敢えてドールに視覚があると想像するならば、ドールにどう見られているかをオーナーは考えざるを得ないのではないか。
もしかしたら、あなたのドールもロイが見たと言うオリオン座の近くで燃えた宇宙船やタンホイザー・ゲートのオーロラのようなドール固有の世界をーーーーーー見ているかもしれない。
6、おまけ
名シーンより。
「4人お迎えさせてくれ。」
「2人で十分ですよ!」
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