感情の探し方

日に日に感情が失われていっているという自覚がある。
はじめに失ったのは喜でそこから楽や怒が、そしてついには哀までも見失ったと思う。

誰かと通ずる扉を閉めてみると、扉の内側にあるのは無で、これまでの感情の全ては自分以外の何かが扉を通過したときの刺激だったのだと発見することができた。物理的に扉を閉めることで刺激は全てかわすことができる。一日の大半を無の状態で過ごして、はじめは耐えられずに扉を少し開けてみたりもしたが、次第に無を心地よいと感じて、無のままでいることを好んで選択するようになった。この扉を自ら開けることはしない、それが意地でもなく今の自分の最適解のような気がしている。

それでも、今生きるために扉を開けてみようと思うようになるまでに1ヶ月がかかり、開けた扉から漏れてくる些細な刺激に慣れるまでに2週間ほどが必要だった。慣れたとてその刺激が喜や楽だとは思えず、大半は哀であった。
全ては愛から始まる、ならぬ、全ては哀から始まる。
何が悲しくて何が寂しくて何が悔しいのかわからないけど。ただ、少なくとも誰かの言葉が全て哀の刺激としてしか自分は受け取れなくなっていると思う。

鏡の中の自分の目に感情が宿るのが怖い。
感情さえなければ、今の自分はいなくて、これまでの自分もこれからの自分も同じように存在できたと思う。
感情さえなければ、私の寿命は10年くらい長くなったと思う。
ときどき、鏡の中の自分が暴れて私を刺し殺すのではないかと思う。
そのくらい、感情の宿った自分は、今の私を否定することに一生懸命になっている。

刺激に敏感であること。
物理的な過敏は知っていた。
音が一番嫌いだ。大きな音は怖い。小さな音は気になる。たくさんの音は困惑する。耳に入る全ての音が、脳裏で全部文字に変わるから、音が鳴るたびに文字で溢れる世界で息ができなくなる。
その次は触覚。拭っても消えない水の痕跡。足裏から伝わる凹凸の不均等。自分以外が触れる生温かい体温。
ぱちぱちとした光、真夏の太陽、カラフルな人工灯、視界の端に揺れる影、柔軟剤の香り、花の香り、飲食店の裏側の匂い、どんな味も口の中に残ることは許しがたくて、歯磨き粉の味ですら何度もゆすいで消してしまいたい。

でも物理的な刺激よりも、感情の刺激の方がつらいと感じる。
自分の心は本当に弱くて脆くて、微風でもふらりと倒れてしまうから、倒れても立ち直る術を知らないまま大人と呼ばれる年齢になってしまったから、大丈夫に全部隠して、自分の心も騙して生きていくしか方法がわからない。
忘れたいことが忘れられない。
忘れたくないことも忘れられない。
忘れてもいいことも忘れられない。
数年前のレシートですら、その日の記憶のほとんどを呼び起こせてしまう。
忘れることが罪なら、忘れられないことはなんなのだろう。
忘れることができたら、どんなに楽になれるのだろう。
忘れられていいから、私も同じように忘れていきたい。

感情が動くよりももっと前のはなし。
感情が生まれる瞬間を、私は一番恐れている。
感情どこから生まれるのかわからないから、刺激を拒んで扉を閉ざしてしまっている。
このままでは生きていくことはできない。
このまま、生きていくことは、自己開示欲求の強い自分のためにはならない。下がりすぎた自己肯定感を高める方法として、今の自分の生き方は全く良くない。
人と関わらずに生きていけるだけの力もなく、人と関わって平穏に生きる術もなく、人と関わることで笑うことも傷付くことも受け入れる勇気もなく、
いっとき逃げ延びている自分を許すことも難しい。

感情とは一体なんなのだろう。
どこから生まれるものなのだろう。
どうしたらなくすことができて、どうしたら上手く付き合えるのだろう。
今の私は、どうやって生きたらいいのだろう。

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