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「揺らぐ」にも理由がある 《さよなら商業デザイナー(2)》

── 前回「さよなら商業デザイナー」の続きです


それにしても、ここ数ヶ月に起こる出来事だ。時の悪戯な一挙手一投足によって、何度も揺り返し揺り起こしという感じで、小さな様々な出来事が起こる。

まるでそれは、世間でよく耳にする寓話のようなお話のように、結婚を決めてから元恋人などから順番に懐かしいなんらかのアクシデントやアプローチがある偶然の重なりのようなもので、何度も、行くか戻るか?進むか留まるか?そんな「A」「B」の選択に迷う。

「あぁ、やっぱり続けたほうがよいかな」「いや、ほら!やっぱりもう辞めたほうがいいよ!」と、何度となく行ったり来たりを感情は静かに繰り返す。
そんなふたつのAとB。どちらを自分の人生の表ととるか裏ととるか?

…いや、そんな大袈裟なものでもなく、この世界の現実とは、全ては受け取り方次第で、人生とはどちらにせよ、どちらでもそれなりのストーリーなのだ。


一瞬なびいてしまうような、後ろ髪を引かれるような出来事が起こる。顔にも言葉にも言動にはこれといってなにも表れないが、ふと自意識は揺れるものです。

そうかと思えば、そんな振り向きかける気持ちの直後に、もう怒るほどの、即座に辞職してやる!と思い返されるような出来事が起こる。


優しさや人情にも、良し悪しがあるように、わがままや愚行にさえもまた、良し悪しがある。闇の中で見る光が目立ったり、光の中ならホコリさえも目についてしかたないかのように。

人は皆そうだとは限らないが、やはりそんな自分の性質に、人間らしさを感じている。

そのようにクライアントであるお客様から、様々なある意味でアプローチをうける。なぜかこういう時に限ってそういう事象が起こることに、とても面白いものだと感じて、そして幾つか思ったりします。

物事はタイミングが全て。そう例えられるほどに、面白いように物事は蠢くもの。そしてこうも思うんです。


物事は必ず「弱点を突いてくる」


苦手だったり、全く意思疎通が出来ないと感じる程に住む世界や見ている世界、時に言語さえも違うのではないか?とさえ思える程のお客様がいるものなのです。

そういう方に限って、不意をついてくる。要は、自分とは逆のタイミングで生きていると感じるんです。

私が旅立ちや独立や卒業だと感じるタイミングに、そういう逆位相にある方に限って、それを制止するが如く動いてくるように感じる時があります。
なんか物事ってそのような面が大きくある気がします。


そこで、自身が決意した選択が揺らぐのか?揺らがないのか?試されているようにも感じます。

そして、もうひとつ思うのは、終決や卒業するのなら、この問題を解いてからだよ。それがこれまで自分が行ってきた世界の責任だと。そういった卒業試験だとも感じます。

それがたとえやっかいな問題でも、大きな枠で捉えると、それはとても祝福に近いものなのかもしれません。その問題を越えてこその進展ですし、その問題こそが自身の理由なのですから。

私の今回の場合であれば、なぜある一定期間の数十年。なぜデザイナーをやっていたのか?その道をなぜ歩んでいたのか?その理由がきっと、そういう一見やっかいな問題にこそ隠されているというものかもしれません。

ある意味で、克服するべき点でもあります。


もちろん、もう終わりにしようと思う、そんなタイミングにこそ、なぜかそうしたアプローチやご依頼が重なったりする、そんな時には、辞めずにとどまったほうがいいのではないか?とも思ったりもしますが、または、こうも思うんです。

ただ単純に、決別するための理由がそこにあるのだと。

じゃあ、なぜ、そういう方達は、いま、こんな時に頻繁に近づいてくるのだろうか?

やはりそこには理由があると思えて仕方のないくらいに、そういう事象が人生には多いと私は感じるのです。


「物事は、弱点を突いてくる。」そこには、学ぶべき事柄や映し出された自己の精神や思考の癖など、私の弱点があるのでしょう。

きっとその対象である実体は、本当は「A」でも「B」でもないのでしょう。
そして、単純に「A」か「B」という二択として、進むべきか?留まるべきか?などと考えている以上、その問題は解けないと思うんですよね。

そうつまりは「迷う」のですよね。そうなのです。せっかくなので、その点に留まり、もう少しだけ深みに嵌ってみたいと思う。

そんなふたつのAとB。どちらを自分の人生の表ととるか裏ととるか?などというハムレットにも描かれるような、そんな大袈裟なものでもなく、この世界の現実とは、全ては受け取り方次第で、人生とはどちらにせよ、どちらでもそれなりのストーリーなのだ。



いささかサイコロジー

やさしさにほだされて、Aばかりを見てしまう時がある。
わがままにあきれ果て、Bばかりを見てしまう時がある。


そして、そんな出来事が繰り返す。そしていつのまにか。Bとばかりに見えていたものの中に、Aを発見する。いかにも、まさに、これが困ったものなのだ。闇の中の光だからこそ、衝撃的に目立って見えてしまうからである。

いつも優しい人よりも、普段恐い人と認識している人物の稀に見る珍しい優しさのほうが目立ってしまう。やさしい人よりも危険な人のほうがモテる理由のひとつがそこにある。

そして、もっと重要なポイントがある。そんな、Aばかりでも、Bばかりでも「決別」や「決断」や「変容」などといった人生の改変は、できるものではない。

なにかに激しく偏った気持ちでの決断というものでは、歪みが生じて、なぜかうまく進まないものだ。解決したように見えて、小さな記憶の粒のような、良くも悪くもささやかなトラウマを残したりする。そういう感覚は、経験上知っている。


何故かと言えば、この話における「A」も「B」も、その両者は、同一人物だからである。


正面から見るのと背後から見る場合との違い程度のことであって、光と陰のようにそれは同じひとつの事物なのだ。人の感情とは、それらをまるで別人格のように錯覚して、それを捉える者の都合の良いように、見たものを見たいように捉える。

復唱するようにまとめるならば、一見して同じ人物や事象の中に「A」と「B」という二面的な多重要素が混在し、「A」は仕事上の顧客として迷惑で好きになれない不都合な人格であり、「B」はAの日常の人間性にとても親しみを覚える人格を垣間みる。

その人物と「縁を切ろうと思う自分」という状況上で、「A」が現れると離別の意志を固め、「B」を捉えてしまうとその意志が揺らいでしまうというような現象は、人間の印象も捉える側次第で、明暗たる表裏一体からなる一個体であり、その中身は実に多様な個性ある多数の人格や性格が共存しているということです。

そしてそれらをまとめて人間は「自分」と認識しています。他者に対しても同様に捉え、自身も常に揺らぐ存在として、その一部同士がその都度の相性となって、時おり垣間みる人格や事象を不都合と感じたり、好意を感じたりしているだけなのだとも解釈できます。


別れの関係性のバランスに問題があり、実はその人物には問題はない。


そう考えると本当は、その関係性のバランスを解決すればよいだけなのかもしれません。即ち、「A」が仕事関係で、「B」が仕事を離れた部分であるなら、その関係は仕事での付き合いを別れ解消し、単純に仕事を除いた人間関係だけになれば解決するのかもしれません。

ただし、そうもいかないのがこの世界の面白い事情です。仕事での関係を断つと、その人物との繋がり自体が消失してしまうようなことも多いのが現実です。でも、もしもそれを憂いその人物との関係を親しく思うのなら、定期的にでも友人として、自分から行動してお会いすればよいのです。

しかし、これが恋愛関係や親族関係を代表とする親密な関係であるならば、そうもいかないのが人情や愛情というものです。また別に、依存関係などは、さらに込み入った複雑な個人の内面的な要素がありますが、この人間の「感情」というのは、無理矢理に剥離させるなら、傷が残ってしまったりします。


大体、なぜ、二択に限定してしまうのか?

そもそもはそこが人間の落とし穴である。是か非か。有りか無しか、AかBかと、まるで善悪や可否のなすり付け合いの裁判ように、2つに一つで考えてしまっている時点で、そういう時は既にダメである。

正義でも悪意あるかのような後ろめたさでも、逆や対やに値するような、まるで別人のような裏腹な意識がいつだって、曖昧に共存しているものだと思う。

正義の味方は悪者から見た横暴な侵略者であるように、なにかひとつに解答を決めつけてしまった決断などは、既に真実を失ってしまっている。不必要な偏向そのものなのだ。正義も悪も、なにが正しいかなんてものはこの世界にはない。

すべては一期一会であるからこそ、印象や直感などが、良かろうが悪かろうが、誤解だろうがなんだろうが、その一瞬は、当事者の世界において真実であり、その者には、それが世界のすべてであるからこそ、それでよいとも言えるのだが。

ただ、すべての他人も自分に等しく、別の世界を生きているということを捉え、またそれを認め許すことや、自分の捉える世界以外にも、無限に近い世界や事物や人物が、その向こうに存在しているということを、人の多くは気がつかない。

また、自分が感じ捉え認識することが世界と断定するならば、逆説としての真理が成り立つことにもなる。

自分が捉えるすべての事物や、自分以外の他人と捉える人物は、結論、すべてが自分自身だということになる。

よって、この話における「A」も「B」も、その両者は、自分自身である。

過度に例えるなら、それは、対象の他人の実体や実像ではなく、勝手に自分が思い込んでいる自身の心情を具現化した架空の姿であり、鏡に映った自分であり、その対象に恐怖を抱くのなら、まるでドンキホーテの風車のような、それは、ただ自分自身の心を映し出した幻想と仮定できる。


世界のすべては、自分が捉えた観念であり、世界とは自分だけの思い込みである。

つづく ──

20170125 12:56



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