いのちの熱と核の火。
自分を生きるっていうことに、人間は知らず知らず、いのちを懸けているなぁと、時々おもう。
まことしやかに'正解"みたいに言われるようなことがあって、それが多数に受け入れられ、ある時代、世界を動かしながら、大きな絵を描いたとしても、その"正解"そのものは、本当はそんなに大したことじゃなくて(たとえそれで虐殺や戦争が起きたのだとしても)、本当のところは、みんなただ、生きている‥‥人間の場合はとりわけ、自分を生きているだけなんだろうなぁと、そんなことを思う。
そんななかで、わたしは好き嫌いが激しいし、冷静と情熱の温度差が極みか!っていうくらいの熱量なので、生きている世界はどこまでも濃密で、まるで自分のなかにその世界のすべてがぜんぶあるように感じるし、反対に認知していない、わたしにとっての0の世界なんて山ほどあるのだろうな、と思う。
だけど、自分の情熱が一ミリも動かない、熱量ゼロの世界の存在を、100パーセントのいのちの熱量で生きている誰かをみつけたときに、その世界は一瞬で、わたしの世界の一部になる。
昨日までは知らなかったこと。
存在すら、きにとめていなかったこと。
自分のなかに、無かったこと。
その熱が、いのちには在ったのだ、ということを、自分のなかに、認めてしまう。
一瞬で魂の目がそらせなくなるようなその生き様は、野生動物や自然に近いけれど、犯罪のようなものだとも思う。
勝手にとりかえしがつかない熱をわたしに植え付けて、わたしの世界を広げて、新しく加わったもののはずなのに、不調和を起こすこともなく、きがつくと全調和している。
世界でひとりぼっちでも、わたしもその人も、なにひとつ変わらず、たぶんそれを生きているんだろうな、って感じてしまうような、静かな、本氣のいのちの熱の循環。
その一過性じゃない、冷めないいのちの熱は、核の火にも似ている。
そのすべてを受け入れたなら生命を生かし繋ぎ続ける大きな熱になるけれど、半端に受け入れたなら、いのちを変質させ、大切なものを焼き焦がす。
それを恐れたり、自惚れたり、嘲ったり、讃えあったりして、時々、人は集団となって、個性を守り続けようとする。
守るために、いのちの熱を冷却して、もう二度と正常なエネルギーとしては使えないゴミのようなものとして、不毛の地の底へと葬り去り続ける。
そんなね、わたしの世界に現れているすべての現象が、わたしといういのちの熱を呼び覚ましては、「ここまでがわたし」と思い込んでいるわたしが決めた100パーセントを、一瞬で更新し続けるの。
この世界は鮮やかだな、と感じるのは、そんなとき。
色を感じて、匂いを感じる。
五感を開いて、熱を味わう。
誰かの100パーセントのいのちの熱量をもって新しくわたしのなかに生まれたその熱が、どんな世界を再生し続けているのかを、細胞の核がお話するみたいに交わって、熱を感じてゆく。
色が表現として受け入れた人々のイメージを恐れる人はいても、色そのものを恐れる人はいない。
本当は、色はただの、色だから。
世界を構成する、素敵なelement。
そうやって、そのまま触れると死ぬいのちの熱は、画素を落とした映像みたいに、今日も世界のあらゆるところでめぐって、冷えきったいのちを温めて、優しい世界を紡いでる。
色と色がわかれて、優しく存在する世界。
だけど欲張りなわたしのいのちは100パーセントの熱しか受け付けないから、今日も明日も、たぶん、いのちそのままの熱を受け入れては、核の火のなかで死ぬんだと思う。
死んで、生まれて、死んで、生まれて。
本能みたいに、呼吸する。
世界の熱さと、いのちの熱さを感じて、生命の繁栄を確信する。
細胞が鳴ると、世界からまた、返事がかえってきて、その音を聴きながら、わたしのなかに新しい、いのちの熱が生まれてゆく。
溺れてた思春期からたくさんのものをうけとって、それを言葉にする間もなく今日も生きているのだけど、なんだかとんでもない生き物になったようなきもちで、ほんのすこし、お遊び程度に不安になる。
(3秒くらい)
人間って、本当にきもちわるいくらい、amazingだ。
かなりシツコイと思われるわたしですら、ときどき面倒くさいと思うくらい、amazing。
でも、どうしようもなく鮮やかで綺麗なのよね
わたしが自分を生きる理由をもし必要とするのならそれだけでいいなと、今日も楽しい地球で、そんなことを思う。
2019.3.15 日本
地球に暮らす、さやかより♪
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