仕事をするとお金をもらえるが、仕事の結果はお金ではない。

仕事をするとお金をもらえる。

こう書くと、まるで、仕事をした結果、お金を得た。という風にとらえてしまうが、物事はもっと多面的で多層的である。

仕事をした結果が、どういう影響を与えるのかというのは、得たお金とは別の次元で機能する。いや、お金を一旦忘れてもいい。

まず、した仕事は、この先日本という国がなくなって円が消滅したり、人類がほろんでしまった後も、影響しつづける。
つまり、お金の方が割と仮想的な存在で、した仕事の方が実態をもっている。

雇われている場合、企業のビジネスの中の一部として、自分の労働が機能するが、それでも、自分のしたことが、実態を持って影響を与える。

これをやりがいという言葉で表現する人もいるが、それがあろうがなかろうが、みえなかろうが、感じなかろうが、実態として機能する。

大工が家を建てて、電気工事士が配線し、そして人が住んでいたとする。
この大工や電気工事士の仕事は、軽く30年はその人の生活の場を提供する。

そして、登場人物が全員死んだあとも、壊さなければ構造物として残り続ける。

いつか、白アリや菌類が柱を崩してくれたり、ツタが覆って森となるかもしれないが。

大工が建てるとしても、大工がその木を植えたわけではない。どこかに杉の木を植えた人がいて、それから数十年して、切った人、加工した人がいる。それらの仕事が製品として形を作って流通する。

電気工事士がつけた配線や、器具も、電気工事士が作るわけではない。別の企業で別の人が作る。そしてまたその材料もその企業が作るわけではなく。それぞれの材料は別のところで、別の企業が作る。

作るとはいっても、第一産業のようなところは、自然の資源を採取したり、掘り出したりするようなもので、銅線の原料の銅は、銅鉱石を掘り出すという仕事の結果用意することができる。

世の中では話を単純化したがるので、まるで、仕事をするとMoneyが増えるとか、生産性をMoneyの増減で計ったりするが、

仕事の本質は、実態側の方である。
Moneyの残高は、単に、人間の行動を刺激するためのジョークみたいなもので、人類が絶滅すると吹き飛ぶ概念であるが、

それぞれの仕事の結果は、未来永劫残る。そっちが本質だからだ。