基本料無料ゲーの意図的な終わりのない設計(ゲーム依存について考えるシリーズ9)

スマホなどで猛威を振るっている基本料無料ゲームのことだが。
一部からお金を搾りとったり、広告表示のボタンを押させたりするソフトが従来のゲームソフトと違うのは、

終わりがデザインされていないことだ。

これは明確に、設計の段階の話であり、別にたまたまそうなったわけではない。

ユーザーをネットの海で誘い込んで、いったん入ったらできるだけ長い間、そのソフトで広告をクリックしてもらったり、一部の搾り取るユーザーの支払いがよくなるように周りで騒いでもらう役割になってもらうようにするためだ。

正直、狂っているが、これは設計の話である。

家庭用の従来のRPGゲームなどは、お話が始まって、最後は終わる。
ところが、ソシャゲは、似たような「お話」があるのだが、マジで永遠終わらないのだ。
とんでもなく、引き伸ばしてのらりくらりと、続けて、結局何も内容がないって感じ。

そして、ゲームが永遠アップデートされるのだが、じゃあ、ゲーム自体がどんどん変わっていくのかというと、ぜんぜん変わらないのである。
(ゲーム開発におけるアップデートと、リリース後のだらだらコンテンツアップデートは、全く別の種類であるということ)

何年もアップデートしてれば、もはや別のゲームソフトになっててもおかしくないのに、たいして変わらずに、永遠と同じようなことをやっているのだ。

おそらく、ビジネスモデルの収益がなりたっている限りダラダラと延命するっぽい。そして、収益性がなくなれば、サービスは停止し、ゲームを起動しても、接続エラーでプレイできなくなるだろう。

まったく従来のビデオゲームと違う仕組みになっている。

ややこしいのは、しかし、従来のビデオゲームの雰囲気を利用して作られていることだ、例えば、「戦士の恰好をしたキャラが敵と戦ってレベルが上がるとか」、「ぷよぷよみたいなパズルとか」、

こういった従来のゲームのふりをした見た目や音を使っていながら、プログラムや、設計が違うのである。

まったく今までと違う見た目をしてればわかりやすいが、スマホゲームは、従来のビデオゲームの技術を利用しているので、ぱっと見は似ているのだ。

なので、最初はみんな騙されたが、もうほとんどのゲーマーは、スマホの基本料無料ゲームは、単に従来のゲームが無料でできるのではないということはよくわかっているだろう。

そして、

基本料無料のゲームの特徴である、終わりが設計されていないという問題は、実はユーザー体験として、わりと、後味が悪く、つまりは、最終的に気分がわるいものとなるように思う。

つまり、ああ、なんて無駄なことをした。とか思ってしまうような製品に仕上がっているということだ。

終わりが設計されていないということは、プレイヤーは、自分で、こんなことをしても意味ない、やめよう。と思ってやめないと、製品自体が、そろそろやめたらどうですか?とは提案してくれない。

これは変に思えるかもしれないが、実際、家庭用ゲームのファイナルファンタジーなどは、エンディングは多大な工数かけて作っており、最終それをみせて、終わりをプレイヤーに伝える。

つまり、ファイナルファンタジーは、ゲームソフトが、もうコンテンツはほぼ消化しました。もう終わりにしましょう?と提案してくれるのだ。

なので、プレイヤーは、すんなりと、終わるのだ。
永遠とファイナルファンタジーをやり続けるのは、FF11とFF14のプレイヤーだけであり、これらはMMOなので、自分でやめないと、ゲームはやめたらどうですか?なんて提案してくれないのだ。

そういえば、MMOと違って、ソシャゲが違うのは、一日あたりのプレイ時間を少なめに制御しているところだ。
ソシャゲは、一日あたりに関しては、もうやめたらどうですか?という提案をゲームに設計している。(スタミナ設計、放置ゲーム設計、デイリークエストなど)
集金するには、しっかりプレイヤーに現金を稼いで働いてもらう時間が必要だし。

FF11などは、プレイヤーにリアルタイムで長い時間拘束することで有名だったが、その代わりプレイヤーの生活を破壊して社会問題になった。
ソシャゲの場合は、一日あたりは短いが、日数的な期間が長くなるように設計されている。長い期間プレイし、習慣化するような設計になっている。

逆に、お金を払うと、プレイ時間が短くなるようなアイテムを販売している。そのため、逆にお金を払わないと、単純作業を永遠とさせられるような仕様になってたりするが、まあ、お金を払わない人は客ではないのでどうでもいいのだ。

「お金を払って楽をした気分にさせるため」に、わざと「架空の無駄な作業」を実装しているのだ。

まあ、結局、全部、ゲームソフトとしては、おかしいんだけど。

思うのは、娯楽という製品を作る場合。
始まりから終わりまでちゃんと設計するのが大事なのではないかと思う。

終わりを設計しないというのは、架空の体験をそのまま放置するようなもので、体験としては、よくないものになるのではないだろうか?

例えば、映画館で、永遠に終わらない映画を見せられたとしよう。
いつか終わると思っていたら、全然おわらない。

最終的に、映画は終わらないけど、自分は外に出てきた。そしたら、自分で外に出たときが、この映画の終わりですって外に書いていたら、バカじゃね?って思うでしょう。

ソシャゲの場合は、お話だけではなく、所有感でもずっと騙している。
キャラやステータスなどが、あたかも、プレイヤーが「手に入れた」ような気にさせているが、実際のところ、永遠に手にはいることはないし、それはつまりは、そういう「仮想的なままごと」みたいなもので、「あなたが手に入れたことということにしておきます。」
といったことだ。

なので、ソシャゲが終わった時に、「自分は何をしていたのか」、と騙されていた気になるだろう。
しかし、終わった時まで待つのは、バカげている。
それがいつかわからないからだ。

もし、FF11ならまだ終わっていないし、パズドラもまだ終わっていない。
つまり、
自分で終わらせないと終わりが来ない。それはつまり、自分が何をしていたのかということ、つまり、何も手に入れてない、自分のものになっていない。そういうままごとを長期にわたってしていただけということに気づくということだ。

このRPGなどで、無意味な時間を過ごした感というのは、家庭用ゲームでは、時間にしては60時間。期間では2か月間ほどになるだろう。
そして、しっかりエンディングを用意してくれている。
なので、まあ、そいうもんか、って思えるだろうし、
かけたお金はソフト代だけだ。

ところが、MMOやソシャゲは、数年の期間、費やしたお金は数万~数十万と、比較できないリソースをつっこみことになる。

これらは、全部、そもそも、終わりのない設計のせいだ。

ひどい話だろ?