音楽は過大評価されている(自分もしていた。)
音楽は、過大評価されている。
音楽家も、歌手も。実際の価値より過大評価されている。
うーん、表現が難しい。
テレビでは、歌手が歌い、ドラマやコマーシャルでは音楽が流れる。
音楽は、まあいえば、「何もないところになにかあるような雰囲気を与える」ツールであると表現できる。
こう書いてみると、「音楽には価値があるが、音楽で価値があるように雰囲気づけられた対象は、過大評価されている。」と言い換えることもできるかもしれない。
とりあえず、「何もないところに、なにかあるような雰囲気を与えるツール」は、価値を錯誤させる道具であるということだ。
なので、そこら周辺は、価値を錯誤させるような技術だらけであり、過大評価を、「させられてしまう」。僕たち一般人は。
で、
じゃあ、どういうことが起きるかというと、
①音楽を大量に聞いても、実際は何も得ていないということが起こる。
音楽にお金を払っても、得るものが実はないので、他にお金を使うことに比べて実質的に貧乏になる。
②音楽の技術をもって、音楽を制作したり演奏しても、それ単体では何も生み出さず、他のことをするに比べて労力を無駄にしていることになり、まあいうと貧乏になる。
売れないバンドをやっている人が貧乏なのは、売れていないからだけではなく、音楽をやるという行為が、ほとんど何もやっていないのと実質同じだからである。
ひどいことを書いているようだが、ピアノを弾こうが、ギターを弾こうが、
何も起きない。
何も起きないのである。
理由は、空気を振動させているだけだからだ。
まあいえば、音楽は、錯覚技術の一種だと思う。
バーチャルリアリティの一種だともいえる。
とにかく、音楽は、過大評価されやすいものなのだ。
なぜか、音楽は、いいものだという論が、世の中に漂っており、
音楽は、錯覚技術だとか、
何もないものに、何か価値があるような気がする雰囲気を作るツールだとか、
音楽を奏でても実際は何も起きないとか、
歌詞は雰囲気重視で中身スカスカだとか、
そんなことを語る人はほとんど見かけない。
音楽制作の人たちは、そんなことわかりきっているけど、あえて言う必要がないから書かない。
一般の人は、音楽はいいものと思ってくれていた方がいいから書かない。
音楽は、ほとんど原価がないようなものなので、うまくやればぼろ儲けであるし、デジタルデータにできるので、複製コストもほぼゼロ。
そして、それをつかって、ほとんど価値のないものを価値ある風に装うことでさらに利益がでる。
なので、音楽は商業でよくつかわれるツールとなっている。
若者は音楽を大量に聞いて、大量に時間を費やする。
しかし、それはほとんど何も価値がないとすると、人生とお金を浪費していることになり、商業マーケティングに乗せられていることになる。
いや、価値があるんだ、というならば、音楽には価値があるという記事を書いてみてほしい。
価値はある。
「価値のないことに、価値があるように錯覚させる技術」だからだ。
客にそう思い込ませることができれば、売って利益になる。
ほどほどであればいいけど、
音楽家を妄信したり、
音楽に大量にお金をつぎ込んだり、演奏練習に大量の時間をつぎ込むのは、結果として、人生の浪費につながる可能性があるという話である。
理由はそんないいものってわけでもなく、それ自体が過大評価してしまうような技術だからというのが、理由だ。
ピアノできれいな曲を弾ける人は、心がきれいに錯覚するが、そんなことはない、ピアノは鍵盤を押せば音が鳴る。それをタイミングよく順番にならせば曲になる。
楽譜はデジタルデータであり、実態もない。
なにもないのに、なにかある気がする。音楽は錯覚の技術である。
錯覚の技術に大量のリソースを入れてはいけない。人生を浪費する。
音楽は、感動を与えてくれるというかもしれない。
悲しみをいやしてくれるというかもしれない。
しかし、あなたが聞いたのは、スピーカーが空気を振動させて作られた音であり、歌手や演奏家が奏でた音というのも、すでに錯覚である。
歌手があなたの前で歌ってくれるならまだしも、インターネット回線からきたデジタルデータを、イヤホンで、ならして、いっちょまえに音楽を聴いていると思っていること自体が、そもそも錯覚なのである。
何かを得ているというなら、何を得たのか。
書けるなら、書いてみてほしい。
音楽は、集団に同じ雰囲気を感じさせ、共感させる技術であり、それを悪用すれば簡単に人をだませる。
僕がこの記事でいいたいのは、音楽を批判するような分析の記事は、どこにも書かれていないという問題である。
世界中のみんなが、音楽はただただいいものと思っているところに疑問を投げかけるのがこの記事の目的である。
音楽の力を使って、マーケターはボロ儲けしているので、そっちの方はこんなことを書くことはないだろう。