Were Wolf BBS ShortStory _私もうじきダメになる
月曜日。
自分の右手が窓ガラスを割ったその音で我に返る。
ガラスの破片で切った傷口からは生暖かい血が流れ出し、それを見た私は「またやってしまった……」と自己嫌悪に陥り涙が止まらなくなる。
「カタリナ、傷の手当てをしないと」
そう言いながら部屋に入ってきたのはゲルト兄さんだった。兄さんは私の奇行を責めもせず、拳を突き出したまま立ちつくした私の手からそっと破片を取り除く。
「兄さん、私またやってしまったわ」
悲しいはずなのに私の口から出たのは泣き笑いのような口調だった。兄さんはそれを聞いて仕方がないというように首を横に振る。
「ダメなの……日に日に自分を抑えられなくなる。きっとこのままだといつか兄さんを殺してまう」
部屋の中は一月ほど前から始まった発作のせいであちこちが壊れている。足の折れた椅子、綿のはみ出た布団、壁に突き刺さったままのフォーク。とにかくすべてがめちゃくちゃになっている。
その発作は何が原因か全く分からなかった。
夜になると私は自分を抑えきれなくなる。とにかく目の前にある物、人、そして自分を壊してしまいたい衝動で正気を失う。それでも初めのうちは理性で何とか自分を抑えられていた。でもそれも一週間ぐらいが限度だった。
「いいよ、カタリナに殺されるなら。僕はそれでも構わない」
毎夜続く発作に私は兄さんに色々頼んだ。
何も壊さないように椅子にしっかりと縛り付ける。毛布で厳重に巻いて床に転がす。そうしたら朝がきたとき私は何も傷つけずにいられると思っていたが、それも無理だった。私の知らない私がいつの間にか縄をちぎり、何かを傷つけている。
そしていつも兄さんは私にこう言う。
「カタリナに殺されるなら構わない」
その言葉を聞くたびにもう二度とこんな事はしない、絶対しないと思うのだが、発作が起こるとそんなことすら忘れてしまう。私はそれが一番悲しかった。
兄さんはガラスの破片を丁寧に取り、消毒をして包帯を巻いてくれた。服の襟元からちらりと見える赤黒く変色したあざが、私が今までやってきた事を無言で責めているような気持ちになる。
「ごめんなさい……もう絶対しないから、私のこと嫌いにならないで」
「嫌いになんかならないよ。さあ、傷が痛み始める前におやすみ」
そう言ってベッドに私を入れ、兄さんは部屋を片づけはじめる。その背中を見ていると、私はいつも奇妙な感覚に襲われるのだ。
今すぐ抱きしめたいような気持ちと、たちまち蹴り飛ばしたいような気持ちに。
火曜日。
窓ガラスは薄い板に張り替えられた。窓から見えるはずの景色も今は無機質な木しか見えない。
「…………」
私は壁を背にしながら、右手に持った釘で左の手のひらに一生懸命十字を彫っていた。板の隙間から漏れる月明かりを頼りに私は十字を彫り続ける。ランプやろうそくがあれば良かったのだろうが、一度発作を起こした時にカーテンを焼いて火事を起こしかけたので、私は灯りを使うことを恐れていた。
聖痕というものがあればきっとこんな感じなのだろうか。もしそれが私にあったならば、こんな発作は起こさずにすむのだろうか。
「こんな事がしたい訳じゃないのに……」
分かってる。
私はこんな事がしたい訳じゃない、自分を傷つけたくなどない。だけど自分を抑えるためには、痛みを与えないとダメなのだ。だから私は私に罰を与え続ける。毎日毎日。
「……リナ……カタリナ!」
気がつくと私の右手は兄さんに止められていた。何度も十字を彫り続けたせいで左手の傷からは血が噴き出している。
「止めないでお願い。止めるなら、いっそ私を殺して……」
すると兄さんは黙って私を抱きしめた。兄さんの肩越しに板の隙間から膨らみかけの月が見える。
「辛いんだね、カタリナ」
兄さんの言うことはいつも正しい。その正しい言葉を聞くと、私は情けなさで一杯になる。
「兄さん、私を殺して……お願い」
「そんなことは出来ないよ。たとえ僕がカタリナに殺されることになっても、僕はカタリナを殺せない」
兄さんの言うことはいつも正しい。
私はとても辛い。自分で自分を抑えなければならないことが。
水曜日。
手の傷が目立たないようにと兄さんが薄手の手袋を買ってくれた。村にやってきた行商人から買ったらしい。それは上等な絹で出来た茶色い手袋だった。
「どう? 似合うかしら」
「うん、よく似合う」
平和な夜。ろうそくの灯りが慎ましやかな食卓を照らす。
手袋はとても手触りがいい。これを傷つける気にはなれなかった。私はうっとりと手袋をつけたまま自分の頬を触る。冷たい感触が心地よい。
「ありがとう、兄さん。大事にするわ」
「うん、じゃあ夕食にしようか。座って、カタリナ」
平和な夜。
私が殺してしまった子羊の死体さえ床に転がっていなければ。
木曜日。
頭の中で誰かが話している気がして起きられない。
羊の放牧は兄さんに行ってもらい、私はベッドで横になっていた。頭の中がざわざわする。誰かの声。喰うとか吊られるとかそんな話。
私はその声にうんざりして兄さんの部屋に入る。ここはとても好きだ。何も壊れていなくて、秩序的で清潔な部屋。きちんと並べられた本棚の中から、私は父のつけていた日記帳を取り出しずーっと昔のページをめくる。
森の中で女の赤ん坊を拾う。
洗礼を受けさせカタリナと名付ける。
私はそのページを読むと日記を片づけ、何もなかったように部屋を出た。ずっと前から知っている、多分兄さんも知っている事実。そのページを初めて読んだときから私の中には奇妙な感情が渦巻いている。
私と兄さんは本当の兄妹じゃない……。
「だから、なんだというのかしら」
私は自分の部屋に戻り、机の上にある聖書を手に取り一ページずつ破って部屋の中に蒔く事にした。
部屋の中に聖書の白いバラが敷き詰められた頃、兄さんは帰ってくるだろう。これを見たら兄さんはなんと言うだろう。神に対して何と罪深いことを……と、私に手をあげてくれるだろうか。
いっそ私を魔女だと罵って殺してくれればいいのに。
そうしたら、私も兄さんも楽になれるのに。
金曜日。
自分が何をしているのかがよく分からない。記憶が途切れ途切れになり、頭の中の誰かの声はずっと止まらない。
「お願い、兄さん。私を殺して」
私は床に倒れた兄さんの上に馬乗りになり、何度も何度も肩を床に叩き続けながら言い続けた。それなのに兄さんは、何も言わず私にされるがままになっている。
「カタリナに殺されるなら構わない……」
ああ、いつもの言葉だ。
体中あざだらけになっても、血が出るほど傷つけられても兄さんは絶対私を責めない。右の頬を撲たれ、左の頬を差し出した主のように私を許してくれる。
どうしてこんな気の狂いかけた私に兄さんは優しくしてくれるのだろう。もしかしたら兄さんは神の遣いか天使なのかも知れない。いや、きっと本物の天使なのだ。そうじゃなければこんな私を抱きしめたりしない。
でも、私はもうダメだ。
兄さんを殺したくないという最後の意志すら危うくなりかけている。兄さんを傷つけたくないと思っているのに、自分の手が止まらない。
兄さんの胸の上に私の涙がこぼれ落ちる。
「……よ、カタリナ」
兄さんの微かな囁きが聞こえたような気がするけど、きっとそれは空耳だ。
私にそんな資格はない。
土曜日。
この村の近辺に人狼が現れたらしく、村人全員が宿に呼ばれた。
「人狼なんているわけないじゃん、みんな大げさだなぁ」
兄さんは真っ先に人狼の存在を否定した。でも村長さんは実際に人狼に襲われた人がいると皆に言う。
私はそれを黙って聞いていた。
頭の中の声はもう誰が言っているのか分かるほどはっきりと聞こえている。私は手袋の感触を確かめるように、手を頬に当てた。
きっと何もかも忘れても、この感触は忘れないだろう。兄さんがくれた手袋。私の目から涙がこぼれる。
「どうしたんだ、カタリナ」
これは誰が聞いたのだろう。でもそれが誰でも良かった。私が聞きたいのは、頭の中に響く声と兄さんの声だけだ。他の声なんてもうどうでもいい、そんなものは羊の鳴き声と同じだ。
「人狼が、恐ろしいんです」
人狼、ジンロウ……何だか不思議な言葉の響き。私はそれを頭の中で反芻する。
いつも正しいことを言う兄さんが、今日は間違ったことを言った。
人狼はここにいる。
前の満月が過ぎた頃から始まった発作、止まらない自傷、暴力癖。
明日は満月だ。それが過ぎれば私は完全に人ではなくなるだろう。でも私は兄さんを殺したくはなかった。だから殺して欲しかった。
もしかしたら、狂っているのは私だけじゃなかったのかも知れない。
やっと分かった。
私と同じように兄さんも狂っていたのだと。
「…………」
私は人狼という言葉にに怯えながら、これからどう村で対処するかを話し合ったあと家に帰った。
その日は発作も起こらず、私は自分の部屋を綺麗に掃除し、壊れた家具を黙って火にくべた。
日曜日。
「お願い、兄さん。私を殺して」
満月は天に昇っていた。私は自分を必死に抑え、涙を流しながら兄さんに懇願する。
「お願い……私とアルビン、そしてニコラスが人狼なの。今ならまだ間に合う。私が兄さんを殺す前に逃げて。そして、誰が人狼なのかを皆に伝えて」
でも、兄さんは黙って首を横に振った。
こうなることは分かっていた。兄さんは私を殺せない。私が兄さんを殺そうとしても、兄さんは絶対逃げないだろう。でもそうしたら私はもう二度と引き返せない。
「言っただろう、カタリナに殺されるなら構わないって」
静かに兄さんが私に近づき手を取った。そして手袋をゆっくり外す。
右手についていたガラスの傷も、左手に彫った十字も既に治りかけていた。兄さんは私の手袋を椅子にかけ、私をそっと抱きしめる。
「どうしても私を殺してくれないの?」
「僕はカタリナを殺せない、だって僕は」
「言わないで。それを言ったら私達終わってしまう」
「僕はカタリナを愛してるから……」
ああ、言ってしまった。
兄さんの中の正しい言葉。いつでも兄さんは私に正しいことしか言わない。
でも満月の下、兄さんは私を闇の中に放り出した。その愛が私を一番苦しめていたとも知らずに。
「愛してるよ、カタリナ」
「兄さん……私も兄さんを愛しているわ。だから私を許して、私を嫌いにならないで」
兄さんの首元が闇に白く浮かぶ。
「嫌いになんかならないよ。殺されたって……いや、僕を殺してくれ。愛してるよ、カタリナ。僕は永遠に君だけを愛し続けるよ」
私は頷きながら涙を流す。
どうして私達は二人だけの国に生まれなかったのだろう。世界が二人だけならば、こんなに苦しむことはなかったのに。二人きりでずっと狂ったままいられたのに。
「愛してるわ、兄さん……」
もう衝動を抑える必要はなかった。兄さんが私を闇の中に放り出したように、私も兄さんを奈落の底に突き落とさなければならない。私は兄さんの首に噛みついた。尖った牙が皮膚をたやすく破り、口の中に生暖かい血があふれ出す。抱きしめた腕が強い力で兄さんの体を締め上げると鋭い爪がその身に食い込み、少しずつ体を引き裂いていく。
私は兄さんの声だけを聞きながら、自分の思考を手放した。きっと次に気がついたとき、私は私じゃなくなっているのだろう。私は兄さんの死と共に今までの私を殺すのだ。そしてどこでもない二人だけの国でずっと一緒に暮らし続ける……。
「君だけを愛し続けるよ、カタリナ」
いつまでもいつまでも、その言葉は止まらず私の中に聞こえ続けた。
fin