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04 かささぎの橋

01 居待ち月
03 弓張り月

 毎日同じ時間にこの木の下で逢おう。
 雨でここに来られない時は俺の家に来るといい、あそこからならこの木が見える。
 君の具合が悪くて来られない時は、俺が君の家に行く。ノックを三回したら黙って二回返してくれればいい。
 それを二人の合図にしよう。それが続く間は、お互いがお互いを信じられる……。

 昼食時を過ぎた昼下がり、オットーのパン屋にヨアヒムとペーター、リーザがやってきた。午後からは大抵菓子を焼いていることが多い小さな店の中にはバターと砂糖の美味しそうな香りが漂っている。
「いらっしゃい。丁度林檎のケーキを出すところだったからそれがお勧めだよ」
「わーい、リンゴのケーキだ。僕オットー兄ちゃんのケーキ大好きなんだ」
「リーザは端っこのカリカリしたところが多いのがいいな」
 はしゃぐペーターとリーザを尻目に、ヨアヒムはオットーに頭を下げた。そういえばこの時間はオットーが必ず配達に行く時間だったということを、ヨアヒムはすっかり忘れていたのだ。
「忙しいのにごめん。オットー、ケーキ三つもらえるかな」
 すまなそうな顔をするヨアヒムにオットーはにこっと笑う。
「謝る必要なんてないさ、こっちも商売だ。俺の作ったものなんか誰かに食べてもらわなきゃ全く役に立たないしな」
 そう言ってオットーは少し大きめに切ったケーキの端を、すぐ食べられるよう紙にくるんで三人に渡した。ケーキはまだほのかに暖かく、林檎の甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。
「はい、美味しく食べてやってくれよ。ああそうそう、クリスマス菓子の試作をしたから良ければ三人で試食してくれないか?」
 そう言ってオットーが渡した紙袋の中には三日月型をした「ヴァニラ・キップフェール」というクリスマスクッキーが入っていた。それを見てヨアヒムは遠慮するように手を振る。
「えっ? いつもおまけしてもらってるのに悪いよ」
「それを言うなら俺からは、いつも買ってもらってるのに悪い、だ。それに試作って言っただろう? 味を見てもらわないとクリスマスマーケットに出せないからな。リーザ、ペーター、協力してくれるかい?」
 そう言われてしまっては遠慮は出来ない。ヨアヒムは仕方なさそうにその袋を受け取り、中に入っている粉砂糖のかかった三日月をリーザとペーターに渡した。
「ここでは一個だけだよ。感想を言ったら残りは広場で食べようね」
 バニラの香りのするクッキーは口の中でさくっと歯触り良く溶けていった。その様子を見ながらオットーはヨアヒムに尋ねる。
「どうかな、ちょっと粉砂糖とアーモンド粉の配合を変えてみたんだが」
 だがヨアヒムが何か言う前に、ペーター達がオットーの前に躍り出た。二人とも目をキラキラさせている。
「すごい美味しいよ、去年食べたのよりも絶対美味しい!」
「オットーさんのお菓子もパンも、いつも美味しいの。きっとクリスマスマーケットに出る、どのお店よりも一番美味しいと思うの」
 二人のその姿を見てオットーは微笑んだ。子供の意見はいつも正直でお世辞を言うことがない。美味しい物は素直に美味しいと言うし、いまいちであれば口で褒めてもすぐ顔に出る。
「うん、二人の言う通りだ。オットーが作る物はいつも美味しいよ」
 ヨアヒムの言葉にオットーは満足げに頷き、メモに何かを書き付けた。そして三人と一緒に正面のドアを出る。
「ありがとう。じゃ、悪いけど配達に行ってくるから少し店を閉めさせてもらうよ」
 パンの入ったバスケットを持ち、店の鍵を閉める。今は村の人間に盗みをするようなものはいないが、既に習慣になっているので変える気は全くないし、いちいちそれを聞くような者もいない。
「オットー兄ちゃんいってらっしゃーい」
「行ってくるよ」
 手を振る三人に軽く会釈をして、オットーは小走りに丘の方へと駆けだしていった。

 そういえば、あの時も村に帰る道を走っていた。
 十年ほど昔になるだろうか、ヨアヒムがちょうど今のペーター達ぐらいの歳で、自分は隣村のパン屋に修行に出ていた頃だ。
 パン屋を継ぐことは子供の頃から決めていた。そのためには父親から学ぶだけではダメだという事を知っていたし、他の人から学ぶ機会にも充分恵まれていて、自分としてはかなりいい修業時代だったと思う。
 そしてその時は村も今ほど小さな村ではなく、人もそれなりに住んでいた。数年前に悪い病が流行るまでここは活気のある村だったのだ。そして活気があった代わりに、盗みをするような悪い奴もいた。
「…………」
 名前など今は覚えてはいない。いや、意図して忘れたと言っても過言ではない。自分から人を避け、そのくせ逆恨みをして人を憎むような奴の名前など覚えている価値もないとオットーは今でも思っている。
 思い出す度に頭の奥がチリチリするような嫌な記憶。だが一生忘れることの出来ない、いや、忘れてはいけない衝撃的な出来事……。

「疲れた……」
 オットーは隣村のパン屋に毎日修行に出かけていた。道は遠いが、足腰を鍛えるのも修行の一部ということで馬車などを使うことはせず、毎日森の中を抜け川を越えて歩いていた。辛くなかったと言えば嘘になるが、森の中には木の実や果実があって、それを使ったパンや菓子を考えるのは楽しかったし父親から学ぶこと以上に修業先では色々なことを教えられた。
 だが熱心すぎてつい帰りが遅くなるのがざらで、男といえども夜の森を抜けるのには少々勇気がいるところもあり、森ではいつも知らず知らず小走りになっていたと思う。
「早く帰ろう」
 その日は見事な満月だったので、ランプをつけずに月明かりの青白い道をさくさくと音を立てて足早に進んだ。自分の影を踏みながら、今日覚えた粉の配合や上手く焼けなかったパンのことを考え黙々とただ足を動かす。
 明日は今日失敗したパンに挑戦してみよう。失敗したのは一体何が悪かったのだろう。酵母の作り方が悪かったのだろうか……そんな事を考えていたその時だった。
「痛っ!」
 ドン! と、突然藪の中から何かが躍り出てオットーにぶつかった。それは自分を見て「ひっ!」と声にならない叫びをあげた後、上がった息の中切れ切れにはっきりとこう言った。
「オットー……逃げて!」
 そう言ったのは村に住む羊飼いのカタリナだった。彼女もちょうど自分と同じ歳ぐらいで、最近独り立ちしたばかりの物静かな女の子だ。
 よくよく見ると藪から走り出てきたせいか金色の髪には木の葉が絡みついていたし、服なんかはあちこち枝にでも引っかけたのかぼろぼろだった。履いている靴も片方脱げかけている。
「一体どうしたんだ、カタリナ? 逃げてとか言われても全然分からないよ」
 カタリナはオットーの問いかけに何とか答えようとしているのか、口をパクパクと動かすが、息が上がって全然言葉になっていない。だがその様子で何かが起こっているのは分かった。とにかくここにいると危険だと言うことも。
「よく分からないけど、ひとまずここを離れよう」
 オットーがカタリナの手を取って逃げようとしたその時……月明かりを背に何者かが藪から現れた。
「……!」
 それは人間ではなかった。
 闇に光る目、鋭い爪、月明かりに照らされ灰色に光る体毛……それはまるで、子供の頃に聞いたおとぎ話に出てくる「人狼」そのものだった。鋭い爪が空を切り、カタリナの服の端を切り裂く。もし一瞬でも自分がカタリナの手を取るのが遅ければ、その爪は服ごと体を切り裂いていたかも知れない。
 どうする?
 自分に何が出来る?
 どうしたらカタリナを助けられる?
 いや、どうすれば二人とも助かる?
「くそっ!」
 刹那の間に色々な考えが頭をよぎり、気が付くとオットーは道の脇にあった子供の頭ほどある石を拾い上げ、それを思い切り投げつけていた。不意を打ったせいか油断していたのか、人狼に向かって投げられた石は鈍い音を立てて顔面に当たり、人狼は姿勢を崩し倒れた。
 どうしてあんな事が出来たのか、今でも分からない。
 崩れ落ち顔を押さえる人狼にオットーは近づき、先ほど投げたばかりの石をもう一度手に取った。俯き痛みに苦しんでいる人狼の首元が目に付く。
「…………」
 この間に逃げ切れるとは思えない。自分もカタリナも顔は見られている。倒すなら今のうちだ、本能がそう囁いた。オットーは無我夢中で何度も石を持ち上げては振り下ろす。気がつくと、隣にいたカタリナも同じように杖を振り下ろしていた。
 腕に伝わる何かが潰れるような嫌な感触、体中を伝う冷たい汗。
 喉はカラカラで苦しいのに、目だけがギラギラしているようなそんな感覚。
 自分は一体何をやっているんだ? 頭の遠くでそう思っているのに、振り下ろす腕が止まらない。どうやってこの衝動を止めたらいいのか自分でも分からない。
「ハァ、ハァ……」
 どれぐらいの時が経っていたのだろう。
 我に返るとそこにいた人狼はぴくりとも動かなくなっており、その横でカタリナが震えながらぺたりと座り込んでいた。あまりに強く石を掴んでいたせいなのか、短く切った爪が欠けたり割れたりしている。
「わ、私……人を……」
「人じゃない」
 自分の肩を抱き震えるカタリナをオットーは強く抱きしめた。
「あれは人じゃない、人狼だ。俺達は人狼を退治したんだ。カタリナは何も悪くない」
「で、でも」
「君が人殺しなら、俺も共犯だ」
 その言葉にカタリナは一瞬泣き笑いのような、よく分からない表情を見せた後ぽろぽろと涙をこぼした。そのカタリナの姿を見て、さらにオットーはこの後自分がどうしたらいいかを考える。
 このまま人狼の死体をここに置いておくわけにはいかない。かといって人狼が現れたことを村の皆に知らせるわけにもいかない。知ればきっと近隣の村はパニックに陥るだろうし、例え自分達が人狼を退治したといっても信じてもらえない可能性は大きい。
 少し目を瞑って考えた後、オットーはカタリナに小さくはっきりとした声でこう言った。
「この人狼を何処かに埋めよう。このことは俺達の秘密にするんだ」
 カタリナは黙ってオットーの言葉を聞いている。
「とりあえず道の端にでもこれを隠しておくから、満月が天辺に昇る頃またここに来よう。これを二人で運ぶのは無理だから、何とかして荷車を借りてくる。カタリナ、別の杖は持っているか?」
「だ、大丈夫。杖はこれ以外にも持っているわ」
「じゃあその杖も一緒に埋めるんだ。俺が投げつけた石も全部一緒に。こんな恐ろしいことに使った物を残しておくのは危険だ」
 こく……っとカタリナは無言で頷いたあと、すん、と鼻をすすり上げ小さく呟いた。
「お願いがあるの。一緒にシュテルンを埋葬してあげて、あの子……」
 全部言葉を言い切らないうちに、カタリナは何も言わずにただすすり泣いた。
 シュテルンはカタリナの飼っていた牧羊犬の中でも一番年上の犬だった。黒くて大きいが、額の所に白い星のような模様があったため「シュテルン」と名付けたのだとカタリナから聞いたことがある。おそらくシュテルンはカタリナを人狼から守ったのだろう。それが自分に出来る最大限の事だと信じて。
「分かった、人狼が蘇らないようにシュテルンに見張っていてもらおう。今は泣いてもいい、だけどシュテルンを埋葬したら……分かるね」
「分かってる。だけど、今は……」
 オットーはカタリナを抱きしめたまま、無言で頷くだけだった。

 月が中天に上った頃、二人は村から少し離れた丘に立っていた。
 そこは見晴らしの良い場所で、カタリナが毎日羊を放牧する場所でもある。そこにオットーとカタリナは深い穴を掘った。人一人分を埋められるぐらいの穴を掘り終わった頃には、月は大分西に傾いていた。そして森の中から荷車で運んできた人狼の遺体と一緒に石と杖を埋める。
「こんな所で大丈夫かしら」
「大丈夫。シュテルンの墓を建てるのを手伝ってくるって言ってきた。誰もわざわざ墓を掘り返しになんか来ない」
 その上に無造作に土をかぶせると、カタリナが白い布にくるんだシュテルンをその上にそっと横たえた。
「ありがとう、私を守ってくれて。人狼が蘇らないようにずっと見張っていてね」
 カタリナが祈りを捧げていると、オットーはその後ろで荷車で運んできた何かを担ぎ上げた。それはまだ若い白樺の苗木で、根元が藁でくるまれている。
「オットー、それをどうするの?」
「墓標の代わりに立てようと思って持ってきた。本当は家の庭にでも植えようと思っていたんだけど」
 そう言うとオットーはシュテルンに優しく土をかぶせた後、その木を慎重に立てながらこう言った。
「カタリナ、この木を俺達が人間だという証にしよう」
「えっ?」
「いつまでもこのことを忘れないように、そしてお互いを信じ合えるように。だから……」
 それは自分達に課した毎日の約束。
 自分達の罪を忘れないように、自分達が人狼ではないと確認するように、あの日からずっと続いているオットー達の日課……。

 顔を上げると丘の上からカタリナが手を振っているのが見えた。
「オットー!」
「ああ、今行く」
 いつ人狼の恐怖が蘇らないとも限らない。だがここにこの木があり、カタリナがいる限り、自分は何度でも人狼に立ち向かえるだろう。
 木は茂り、時が経つにつれあの時の面影は薄くなっている。
 だがその根が深くなっていくように、二人の絆は強まっていく……。

05 星の船

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