17 星月夜

01 居待ち月
16 星を見るひと

 この頃同じ夢をよく見る。
 それは絵を描いている自分が人狼に襲われる夢。
 でも何故か全然怖くない。そして自分の意識がすぅっ……と途切れるところで、目の端に映った血塗れの絵を見ながら思うんだ。
 ああ、これで僕の絵が完成した、って。

「こんにちは、ゲルトさん。絵は完成しましたか?」
 アルビンは村にいる間よく僕の家にやってくる。別に絵の出来上がりが気になっている訳じゃなくて、あまり外に出ない僕を心配して様子を見に来てくれているのだろう。アルビンが村にいないときも、誰か彼かが僕の所に顔を見せに来てくれる。
 僕は寝不足の目をこすりながら大あくびをしてドアを開けた。ヤケに寒いと思っていたら外は一面真っ白だった。もう本格的に冬なのだろう。アルビンが玄関で白い息を吐いていた。
「おはようございます。昨日降った雪で村一面真っ白ですよ」
「そうみたいだね……お茶でも入れるからちょっと入っておいでよ」
 アルビンを家の中に招き入れ、絵を立てかけていない椅子を勧めた。テレピン油や絵の具の匂いが充満していた家の中に、冷気と一緒に新鮮な朝の空気が入り込んでくる。
「相変わらずすごいですね。何枚ぐらいあるんですか?」
 椅子やテーブル、壁に立てかけてある絵を見ながらアルビンは部屋中を見回した。本当はもっと大きな家でアトリエや乾燥用の部屋があったりするといいのだけれど、僕はこの家が気に入っている。日の入り具合だけでなく、ここが僕に残された大事な家だからだ。僕はここ以外で絵を描くつもりはない。
 僕は指を折りながら絵を数えた。暖炉にかけてあるやかんが白い湯気を出し始める。
「うん……アルビンから注文を受けてた風景画が二枚、隣村で頼まれた家族絵が一枚で、後は僕が好きで描いたやつが十枚ぐらいかな。数えてないからもっとあるかも知れないけど」
「そんなにあるんですか?」
「油絵は乾燥に時間がかかるんだ。壁に立てかけてあるのは結構厚塗りしてるから秋口からそこに置いたままなのに、まだ触ると絵の具がつくんだよ。だから動かせない」
「大変なんですね、絵のお仕事も」
 そう言うとアルビンは立ち上がり、部屋の中の絵を一枚一枚見て回った。そして時々「うーん」とか唸りながら絵を鑑賞している。それを見ながら僕はテーブルの一部を片づけて、そこにアルビン用の紅茶を置いた。
 テーブルの上も絵の具や筆で乱雑としていて、とてもお客を招くような状態じゃない。そのうち片づけ……いや、片づける必要はないか。どれもこれも絵を描くには大事な道具だ。僕が何処に何があるのか分かればいいんだし。
「紅茶入れといたよ」
 そう言って振り返ると、アルビンはイーゼルにかけてある大きなキャンバスに見入っていた。
 それは僕が描きかけの絵だった。
 多分一見すると何が描いてあるのか分からないだろう。僕はその大きなキャンバスにとにかく考えつく限り、混ぜ合わせて作れるだけの『赤い色』を塗っていたのだから。
 アルビンはその前で一生懸命考え込んでいる。僕はそこに声をかけた。
「どうしたの? その絵がそんなに気になる?」
「ええ。失礼ですけど私は芸術というのは、何がどう良いのかよく分からないんですよ。でもこれは何だか引き込まれるんです。何と言ったらいいんでしょう……『生きるための色』が描かれている様な気がして」
 僕はその言葉にクスッと笑った。
 アルビンは「芸術なんて分からない」と言ったけど、それより大事な本質を分かっている。赤は血の色。それが流れている間は死人じゃないって思える色。
 僕はアルビンにカップを渡した。
「その絵、気に入った?」
「あ、はい。商売抜きで気に入りました」
「だったらさ、出来上がったらあげるよ。まだそれ、未完成なんだけど」
 僕の申し出にアルビンは驚いて首を振った。その拍子にカップから紅茶が溢れて「熱っ」とおろおろする。
「で、でも、私には飾るための家がないんです。だからこの絵はゲルトさんの家に置いておいて下さい。そして私が来たときに見せてくれればいいです」
「分かった。多分絵が出来上がったらアルビンはわかってくれると思うよ」
 その言葉にアルビンが微笑んで紅茶をすすった。そしてカップをテーブルの縁に置く。
「ではその時を楽しみにしてますね。ところでゲルトさん、人狼の噂は聞きました?」
「人狼?」
「ええ、最近この近くの街道や隣村にも出てるそうです。だから夕暮れ時に出かけるときは一人じゃないほうが良いですよ。私も隣村に行って帰りが遅くなりそうな時はヤコブさんや、トーマスさん達と出かけるようにしてますから」
 不安そうな顔をするアルビンに、僕はあくびを堪えながら笑ってこう言った。
「人狼なんかいるわけないじゃん。アルビンってば大げさだなぁ」

「…………」
 僕はキャンバスに赤を塗り続ける。
 眠い……眠くて仕方ない。でもいくら寝てもこの眠気は取れない。僕は眠気を振り払って絵を描き続ける。
 絵筆を持ったまま考えているのは、いつも見る夢の事だ。
「どうして忘れていたんだろう」
 僕の役割を。僕がどうしてここにいるのかを。
 僕の役割は『幕』だ。幕が上がらないと舞台は始まらない。
 幕が上がれば舞台が始まる。だけど幕はその舞台を見る事は叶わない。
「…………」
 涙でキャンバスが歪む。僕はそれを袖でぬぐい去る。

「……赤い匂いがする」
 レジーナの宿屋で夕食を取っていたとき、僕はカウンターではっきりとこう言った。
 その日はたくさんの村人が宿に来ていた。ディーターはヨアヒムやパメラ、アルビンと軽い賭けポーカーをしていて、神父様はシスターと聖書の難しい話をしていた。ニコラスはモーリッツから古い村の話を聞いたりしている。その周りでリーザとペーターがアドベントカレンダーのお菓子を仲良く分け合っていた。
「赤い匂い? 今日のトマトのシチューの匂いかい、それともパプリカの匂いかね」
 レジーナが僕の目の前にトマトのシチューを差し出した。僕は首を振る。
「いや、トマトとかとは違うんだけど、何か赤い匂いがするんだ」
 僕の横からひょいっとリーザが首を出した。
「ゲルトさん。赤い匂いって、他にも青い匂いとか黄色い匂いとかもあるの?」
「うーん、絵の具によってちょっと違いはあるけど、たとえて言うならお日さまの匂いとか冬の匂いとかそんな感じかなぁ。上手く説明できないんだけど」
「お日さまの匂いならリーザも分かるけど、赤い匂いは分からないの。でも空に浮かんでる雲が綿あめみたいな匂いだったらいいと思うの」
「リーザが言ってるのとはちょっと違うんだ。うーん、何て言ったらいいのかな」
 するとシスターが顔を上げ、僕とリーザの方を見た。
「でも目が不自由な方の中には、色を匂いで認識する人もいらっしゃるようですわ。ゲルトさんは画家だそうですから、もしかしたら色と匂いに敏感なのかも知れませんわね。……例えば、人狼とか」
 その言葉に皆の言葉が止まった。僕は目をこすりあくびをしながら首を振る。
「そんなんじゃないよ。ただ何となく赤い匂いがするって思っただけで、どこからとかはよく分からないんだ。それにしても眠いよ」
「おいおい、寝ぼけて鼻に赤い絵の具でも入っちまったんじゃねぇのか?」
 ディーターの言葉にみんなが笑った。
 笑ってなかったのはシスターだけだった。

 シスターがやってきたのは次の日の朝早くだった。
「ゲルトさん、よろしければ昨日のことを詳しく話して欲しいのですけど」
 僕は寝ていたところをノックの音で起こされて、頭を掻きながら玄関に出た。まだ朝早いというのにシスターはきっちりとした格好をしている。紺色の僧衣に白いマフラーが眩しい。
「昨日って、もしかして『赤い匂い』のこと?」
「ええ、ちょっと興味がありまして」
 シスターは微笑んでいるけど、何だか威圧感があった。僕は首を振る。
「気のせいかも知れないのに、どうしてそんなに躍起になるのかな? 僕にはよく分からないよ」
 そう言いながら僕は大きくあくびをした。シスターは顔色一つ変えずにこう言う。
「この村の近辺に人狼が出ていることは、ゲルトさんもご存じのはずですわ。私は小さな情報でもいいからそれが欲しいのです」
 シスターの言葉に僕は首をすくめた。
「人狼なんているわけないじゃん。まさかシスターってば、そんなおとぎ話を信じてるの? 何かおかしいよ」
「……本当にそう思っているのですか?」
 僕とシスターの間に一瞬緊張が走った。でも僕はそれを笑って遮る。
「当たり前に決まってるじゃん。本当に人狼がいるっていうのなら、とっくに僕もこの村のみんなも襲われてるよ。それより、僕まだ眠いから布団に戻って寝てもいい?」
 もう一度大あくびをした僕を見て、シスターは溜息をついてがっかりしたような表情をした。
「朝早くからごめんなさい。失礼いたしました」

 僕は絵筆を動かし続ける。
 考えつく限り、混ぜ合わせて作れるだけの赤を大きなキャンバスに塗り続ける。
 その色は流れている血のようにも、血溜まりに固まっている血のようにも見え、絵筆やパレットナイフの跡はひっかき傷や切り傷のようにも見える。
「ごめんね、シスター」
 僕は失望したように去っていったシスターのことを思い出していた。
「誰にも言わない。誰にも言えないんだ」
 本当は知っていた。この村に人狼が潜んでいる事を。
 僕は分かっている。僕がどうなるか、幕がどう上がるかを。
 僕が分からないのはこの村の行く末だけだ。人狼に村人が滅ぼされてしまうのか、それとも村人が人狼を退治できるのか、それだけは僕が見ることは叶わない。
 いや、本当は知っているのかもしれない。僕がずっと自分が幕であることを忘れていたように、この村の行く末も忘れているだけなのかもしれない。
「…………」
 パレットに赤い絵の具をしぼり出す。
 今まで作っていた赤に少しずつ混ぜ合わせたりしながら、また新しい赤を作り出す。
 本当は『残らないこと』が僕の役目なのかもしれない。舞台の素晴らしさは心に残っても、幕がどうだったかを覚えている人がいないように。
 でもそれだけは嫌だった。
 僕が生きていたという証を一つだけでもいいから残したい。だから僕は絵を描いた。
 この『赤い絵』がその証。
 もしかしたら僕が死んだ後、焼かれてしまうかも知れない。気味が悪いと言って捨てられてしまうかも知れない。それで良かった。
「…………」
 でも本当は、誰か僕を覚えていて欲しい。
 僕が死んだことを心の底から悼んで欲しい。ただそれだけでいいから。

「寒いや」
 真夜中、僕は外に出た。
 星月夜……星がまるで月のように光り輝いている。空を見上げながら僕は雪の中に倒れ込んだ。その瞬間粉雪がぱっと舞い上がる。
「祭りが始まる……」
 それは人と人狼との密やかで暗い祭り。お互いの生と死を賭けた残酷な祭り。
「…………」
 星が涙で歪んで見えた。
 僕が夢の中で見た他の世界の僕達も、同じように涙を流したのだろうか。忘れ去られることに恐怖しながら、人狼に殺されることに怯えながら。
 でも僕は怖くなかった。僕の絵が完成するためには、僕が死ななければならないから。
「僕はもしかしたら、早くあの絵が完成することを望んでいるのかも知れないな」
 あの絵の最後の赤は僕の血だ。それで僕の絵は成就する。
「あはっ……あはははは」
 ああ、やっと分かった。
 僕は怖くて泣いているんじゃない。待つのが辛いんだ。
 毎日同じ色を重ね続けて、完成を待ち続けているのが辛かったんだ。

 僕はキャンバスに赤を塗り続ける。
 自分という絵を完成させるために、それを待ち続けるために。
 寝る間も惜しんで僕は赤を塗りづける。僕が生きるために生まれてきたんだという証のために。
「…………」
 ほら、人狼が荒野を駆ける音が聞こえる。やがてこの村にも人狼が出るって噂が本格的に流れてくるはずだ。そして人狼を捜し出すためにみんなが呼び集められるんだ。
 僕には分かる、人狼はいる。
 だけど必ずこう言おう。道化師は涙を見せない。幕として……いや、僕の絵の成就のため、絵が完成するのを一瞬だけ確認するために絶対こう言うんだ。

 人狼なんかいるわけないじゃん、みんな大げさだなぁ。

18 月の鏡

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?