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Episode.01 職人からの起業

"社長になって儲けたい"

「社長になって儲けたい」
18才で内装業界に入ったのは、この思い1本。
きっかけは、何気なく手にした読売新聞でした。見出しに大きく「これからは新築よりもリフォームの需要が増える」と出ていた。見た瞬間に感じました。これからはリフォームの時代だ、と。
「なんとしてでもその業界に入ろう。」そう考え、すぐに知り合いの不動産屋に「どこかリフォームの会社を知らないですか?」と問い合わせをしました。
紹介してもらったのが内装仕上げ工事を手掛ける5名ほどの小さな会社。
調布市つつじヶ丘にあったその会社には、自宅がある稲城から毎日30分、自転車をこいで通いました。なにせお金がなかったですからね(笑)。
給料は30日間フルで働いて10数万円。しかし、手に職をつけてなんとしてでも稼ぎたかった。そして、いずれは社長になりたかった。その時の自分は、我ながら必死でした。
仕事は家に戻ってからも続きます。現場で見た先輩の技術を家に戻ってから「おさらい実践」をしたんです。
アパートの壁を壊しては作り変える。壁紙を剥がしては新しく張る。この作業をいったい何度繰り返したことか。(現場の余り材を、捨てず持ち帰って活用していました)

やがて回数をこなすうちに、仕事をこなすスピードが確実にあがりました。そうなると、現場での評価も高まるんですよね。
「大川やるじゃないか」と褒められればうれしくないはずがない。だから、また練習を繰り返す。任せてもらえる仕事がどんどんと増えてきました。
こうなって来ると、仕事が楽しくて仕方がなくなります。
毎日深夜まで仕事をしていました。当時はお金がなかったから、お昼ごはんもろくに食べてなかった。食べても1日にせいぜいおにぎり2個程度で、週に1回ラーメンを食べるのがちょっとした贅沢でした。
遊ぶことなんて思いもよらず、とにかく働き続け、ついには先輩がやっている仕事も難なくこなせるようになりました。おかげで給料も徐々にアップし、20才の頃には25万程をもらえるようになっていましたが、私と同じぐらい仕事ができる先輩の給料の額(40万円)とはずいぶん開きがあった。
そこでついに、社長を捕まえて居酒屋に行き「給料を上げるにはどうすればいいのか?」と相談したんです。
その結果は…
どうやらここでがんばって働き続けても、先輩と同じ額をもらうにはずいぶんと時間がかかりそうだ、ということでした。(「まだ若いからダメ」と改善の余地がない結論)
この会社に残るべきか、やめて転職すべきか、あるいは…。どの道を選ぶのか自分自身に尋ね、考えた末の結論が「独立」でした。(といっても3分くらい。笑)

2000年6月1日、起業

「独立します!」

勢いよく宣言しては会社を辞め、自分で会社を設立しました。
当時の社名はユニオン企画。しかし、独立したのはいいけれど、当然ゼロからのスタートです。仕事もなければ、道具もない。何から手を付ければいいのだろうか。
まず、必要なのは道具だろう。そう思い、私は狛江にあった現金問屋に出向いて、材料や道具を確保しました。
よし、これで仕事がいつ来ても対応できる。次に取り掛かったのが、チラシ配りです。『クロス張り  1㎡当たり800円 床・クッションフロア 1平方メートル当たり2400円』という料金表と連絡先をプリントしたB5の紙を印刷して多摩地区の不動産屋に飛び込みで営業しました。
結果は惨憺(さんたん)たるものでした。1ヶ月飛び込み営業を続けましたが、反応はゼロ。文字通り、一件もなかったんです。問い合わせすらなかった。日を追うごとに焦りが増していきました。

そんな時、独立して最初の仕事は思わぬところから舞い込みました。
知り合いに連れて行ってもらった稲城の居酒屋に来ていた客の一人が大工さんで、「6畳一間のアパートのクロスの張り替えを8万円でやってみないか?」と声をかけてもらったんです。
初めて飛び込んできた仕事です。一も二もなく、「やります」と即答し、仕事に出向いてクロス張りを終わらせると、次に3万円でクリーニングも依頼されました。
独立から1ヶ月。ようやく11万円の収入を手にしたときには涙が出るほど感激しましたね。

しかし、そこからはまた以前の苦労に逆戻りです。
チラシを片手に、ひたすら飛び込みで営業をかけても仕事はまったく入らない。まずい。このままでは食べていけなくなる。
窮地を救ったのは、またしても人との出会いでした。
知り合いに誘われた出かけた飲食店で、「デュエットしよう」と声をかけてきた50歳くらいの男性と一緒に歌い、飲んだんです。
普段はカラオケには行かないので、デュエットと言われても何を歌っていいのか分かりませんでした。この男性がかけた曲は、「みちのくひとり旅」だったかな?適当に歌に合わせて口パク対応、なんとかデュエットが終了したところで名刺交換をすると、その男性は薬局をチェーン展開している会社の専務でした。
すかさず「仕事、ください」と携帯電話の番号を交換した1週間後。本当に電話がかかってきました。
「大川君。薬局、作れる?」仕事の依頼の電話でした。
「できます!やらせてください」と、店舗を手がけたことなど一度もないのに、気が付くと私はそう答えていました。

当時の私は壁や床は作れても、店を一軒作るのに必要な技術や知識はまったくありません。
下地のことも知らないし、設備や電気、家具のこともわからない。保健所関連の知識も皆無です。
しかし、『チャンスを逃したくない!できないなら、できるようにすればいい。』まずは現場を見に行き、タウンページをめくって、地元でガラス屋やガス、給排水を手がける会社をあたりました。どんな業者さんを手配すればいいかの知識はあったので、電話帳で良さそうな先を見つけては電話をかけ、必要な業者さんを手配しました。
しかし、図面を描く設計士は仕事の核ともいえる部分なので、電話帳であたるのはちょっと不安があった。
では、どうするか。同じマンションの4階にキャリア20年のベテラン設計士がいたことを思い出しました。
ドアノックをし、相談をしてみると、すぐに承諾の返事をいただいたので、設計協力をしてもらい、晴れて正式に仕事を受注できました。
いま思い返しても、この設計士は本当に親切な方でしたね。「大川君。わからないことがあったら何でも聞いて」と言ってくれました。この人に任せたら店は完成させられる。最初にそう確信しました。

芽生えた欲求

そうやって、店舗づくりは初めての経験でしたが、無事に完成させることができたんです。依頼してきたお客さんにも喜んでいただけました。
この仕事で請け負った金額はトータルで450万円。床と壁を張っただけの私の取り分は20万円でしたが、自信がついた上に、何もないところから店を一軒作るというプロセスが無性に楽しかった。
同時に、もっともっと勉強したいと強く思いました。
わからないことは職人や業者さんに教えてもらいましたが、そうしたことも全部自分のものにしたくなった。自分にはない知識と技術を吸収したいという強烈な学習意欲が、自分の中に生まれました。
この時に作った薬局は残念ながら今はもうありませんが、この時の経験が自分を変え、後の会社の方向性を大きく左右することになっていきます。


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