狭くて広いはずの世界

 世界が狭く窮屈な物だと思うようになったのは、一体いつだろう。
 交通の便もとても良いこの時代。たった千円でもあれば、降りたこともない名前も知らない街に行けるし、五千円でもあればそれこそわりかし何処にでも行けると思う。
 海が見たいなら行けばいいし、山に登りたいなら行けばいい。
 勝手に思い込んでいるだけということは勿論知っているのだけれど、人間は思いこんでいるものしか認識できないのでこればかりは仕方ない。

 今日は帰りにたまたま間違えて別方向の電車に乗ってしまった。
 気づいたのが二、三駅程度で、家とは真逆に向かっていたからこのまま乗っていけば全然知らないところに行くだろうなぁと思った。
 思いはしたのだけれど降りてしまった。
 やることがいっぱいあるからなぁと、大変都合の良い言い訳片手に今は帰りの電車に乗っているというわけである。
 認識できないのであれば仕方ない。そう思うのは簡単なのだがなんというか寂しくある。
 昔は何も知らなかったから自由だと「勘違い」をしていたわけだけれど、世の中知らない方がいいことも沢山あるわけで。
 とはいえ現代社会に生きる社会人としてはこればかりは致し方ない。致し方がないので、こうして感傷に浸りながら文章を認めている訳である。
 
 つまらない大人にはなりたくないなぁと、多分ほとんどの人は漠然とでも思ったことがあると思う。
 例に漏れず私もその一人だった訳だけれども、なんともまぁつまらない大人になってしまったなぁと思わざるを得ない。
 もうちょっとこう、行動力というか、フットワークというか。そういう人間になれたらいいなぁと思うだけで休日が過ぎるなんとも物悲しい人生になっている気がしてならない。
 やろうと思えばなんでもできるはずなのだけれど、だからこそ何もできなくて、ただ残念だなぁとだけ呟くのは、それは生産性があまりに低いというものだ。

 結局ただの愚痴になってしまったのでこの辺りで終わり。

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