人間と真実

「真実」よりも「そのように見える」ことの方がおおよそ大事である人類にとって、口約束ほど適したものもないのだろうと思ってしまう今日この頃。
 本当を求めるくせに嘘に安心する。優しさで味付けされた虚構の料理を今日も美味しそうに頬張っている。

 とどのつまり突きつけられるのが怖いのだ。探求するのが怖いのだ。
 知らなければ怖くない、痛くない、辛くない。見ないふりをして生きていけるならそれが一番いい、それはそうだ、当たり前だ……。
そんなふうに嘘の本当を自分の心に何層も纏わせて、その内その膜は癒着して貼り付いていることすら忘れてしまうのだ。とても悲しく、非常に合理的。あゝ素晴らしきかな我が人生。
 別にそう言ったことが悪いとは思っていないし、現に自分もそうやって嘘を重ねて生きている。安心している。社会人にもなって注射は嫌いだし、カレーは中辛だし、人に本心を遠回しに投げようとして暴投したりしている。

 ただ注射に関しては最近少しマシになった。「これ明らかにレゴ踏んだ時の方が痛いんだよな」と気づいてからは、刺される前にそう思うことで怖さを和らげる術を身につけた。こうして大人になっていくんだなぁ、経験が人間を強くするんだなぁ、と。そんなことを思いながら、でもこれは中々に本質をついているような気がしないでもない。

 気付きは大人になる条件として必須項目なのだと、社会人を三年やって思ったことなのだが諸先輩方は如何思うだろうか。
 自分が何をすれば仕事が一番スムースに進むのか「気付く」。今お客様が何を求めているか「気付く」。同期が熱心に誘ってくる合コンの動機に「気付く」。こういったことで仕事及び人間関係が円滑に進むのだろう。因みに最後のは嘘で合コンには一回も行ったことがない。

 人間、というよりは貧弱な経験則に依れば「日本人」という括りになるのかもしれないが、非言語コミュニケーションをとかく重要視しているように感じる。
 相手が何を望んでいるのか言われる前に察して動け。言われるまでもなくわかってほしい。言いたくないけど伝わってほしい。そんな都合の良い要求ばかりまかり通っている社会ではあるが、実際問題仕事上では言っている暇がない場合も少なくはない。 
 経験が足りない頃はそんな無茶なことを要求するなと思ってしまったものだが、慣れとは怖いもので、最近はなんとなく分かってしまうことも出てきた。
 分かりあっている、ということはつまり安心につながる。分からないことは元来怖いので名前をつけたり、そもそも避けたりすることで人間は幾度も危険を掻い潜ってきた。

 ただ皆気付いてはいるはずだ。それは分かっているのではなく、分かったつもりになっているだけ。相手が何を望んでいるかなんてことはそれこそ本心を直接覗かなければ分かりようがないし、考えれば考えるほど疑心暗鬼になってしまうので早々に考えるのをやめることが賢明である。
 しかし社会を回すということに重点を置くのであればそれが正しい、というかそうでないと回らない。一々「本心はどうなんだ」等という探り合いをしている暇は、日々仕事に追われている社会人に到底存在しない。

 真実が大事というのは当たり前で尊ぶべき感情だ。それはつまり時間がある若者の特権であり、大人はそれを忘れるのではなく、悲しいかな忘れざるを得ないものなのだと思う。

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