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メリー・クリスマス

 元彼には「相手の立場に立ってものを考えることが致命的にできないよね」と言ってフラれたのだった。たしかにそうだと思う。私には、彼の立っている地点から、この世界がどのように見えているのか、想像することもできなかった。物語を作る人が、自分より頭のいい登場人物の心理を描けないのといっしょだ。でも、彼には「私の立場」というものがわかっていたのだろうか。

 こんな日に外にでかけるんじゃなかった。といっても、家にいるのもどうも収まりが悪く、それに耐えられなかったのは、他ならぬ私なのだが。ぼーっと歩いていると、人と肩がぶつかってしょうがない。

 新宿には有名なジャズ喫茶があるというので、行ってみようかと思い、ここまで来た。しかし、根っからの埼玉県民である私には、まずいまいる場所が新宿のどのあたりかがわからない。

 あの天に向かってそびえる昆虫の卵みたいな建物は、なんなのだろう。あれが卵だとすると、あれを生み出した昆虫の大きさは計り知れない。その羽の生えた昆虫が空を横切るとき、新宿は一瞬だけ夜になる。次の瞬間には空は晴れ渡っている。そういう虫がいるとすればの話だが。

 とりあえずあの卵に向かって歩こうと思った。しかし、どうやらここは地上ではなく、歩行用のデッキであるらしい。いったん下に降りてみる。

 人形のように顔が真っ白い男たち四人くらいとすれ違った。みな明るい色に染められた、きれいな長い髪をしている。ボリュームのあるアウターを着込み、揃いも揃ってぴちぴちのジーンズを履いている。四人は、私がいままで一度も口にしたことのない下品な単語を使って、とても楽しそうに喋っていた。

 付き合った当初の元彼はよく私に「ひざまくらをしてほしい」と頼んできた。私としてはとくにやりたいとも思わなかったのだが、ひざまくらをすると彼は「落ちつく」と言っていたので、落ちつくならそれはいいねと思っていた。正直私は一人でいるときが一番落ちついた。彼といっしょにいたのは心が休まるからとかそういった理由ではなかった。ではなんだったのかと考えてみるものの、答えは出ない。彼が私を好きになったという、それだけのことかもしれない。

『人間失格』で、大庭葉蔵が「空腹を感じたことがない」と語っていたが、私は満腹を感じることの方があまりないと思う。食べようと思えば食べられるが、そこまで食べることが好きではないようで、自然とやめてしまう。家で満足に食事を与えられなかったこともないし、かといって太ったこともない。傍目に見ればつまらない人生だと思う。

 そう、私はずっとつまらない。世界がつまらない。いや、それはあなたがつまらない人間なんだよ。それもまた然り。

 いつのまにか大通りに出ていた。車がすごい速さで行き交っている。さきほどに比べると人が全然いない。空が曇っている。とても寒々しい光景だ。寒々しいというか、実際、いまの外気は、思わず顔をしかめるほどに冷たい。苦痛を感じるとき、私ははじめて人並みの感性を得ることができる。あ、そっか。だからか、とひとり合点がいった。彼といた理由。

 脚に鈍い疲労感を抱えながら歩いていくと広い公園があった。だれかが「広めの公園を作ろう」と思って作った公園、といった印象を受けた。三次元の図の中に、灰色のビルのかたまりがあって、その灰色を一部削りとってグリーンのシートを置いてみたという感じ。

 公園は、自然発生しない。誰かが「作ろう」と意図して作っているわけだから、「だれかが『広めの公園を作ろう』と思って作った公園」という表現は、ただ当たり前のことを言っているにすぎない。いまそれに気づいた。

 あらたな苦痛を得たい、というのは健全な感情だろうか。でも、いまたしかに私の中に芽生えた感情を言語化すると、そういうことになる。あらたな苦痛。

 公園の自販機のそばで一人ぼうっと立っている男がいる。男は煙草を吸っている。三十代後半くらいだろうか。ぼさぼさの髪が肩に近い位置まで垂れ下がっている、髭面の男。ごわついた素材のカーキのアウターを着ている。端的に言って、不潔そうだ。

 私はたしかな足取りで彼の元へと近づいていく。まるで人をナイフで襲うときみたいに。早くも遅くもないペースで彼に迫る。彼の前で立ち止まると、目が合った。

「あの、すみません」
 私は彼に話しかけた。
「はい」
 彼は答えた。床についたガムを剥がすときの音みたいな声だった。

「私になにか、いやなことを言ってくれませんか」
 私の放った言葉は、彼のなかにすっと収まらずに、しばらく跳ね返りつづけるようだった。

 その球がようやく落ちついたくらいのタイミングで、
「いやなこと?」
 と、彼は聞き返した。
「いやなことです」

 彼は、少し地面の方に顔を傾けてしばらく考えていた。考えている間に頭に冷たいものを感じた。私は手のひらを空に向けて宙にかざす。雪だった。

 おたがいに雪が降っていることを無言で確認する時間があった。それは二人の間にだけ流れている奇妙な時間だった。おそらく二人とも、二人なりの理由があって、一人だった。

 寒いし、こんなことはやめにして、無礼を侘びて立ち去ろうかと思い始めたころ、彼は言った。
「メリー・クリスマス」

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