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自己紹介・ゲーム遍歴など①

 プロフィール欄に『Diablo / UltimaOnline / Diablo2 / Shadowbane / Everquest2 / Diablo3 / Minecraft / Splatoon2 / RUST / Splatoon3 に数千時間ずつ時間投資。』と書いてきましたが、今となっては非常にわかり辛いと思うのでもう少し詳しく徒然してみます。(当時の様子のわかるサイトへのリンクを配していますが、自分の書いたものはありません)


DIABLO

 ネット上で人格を持つようになった始まりのゲーム。プレイしていたのは1998年4月から1999年11月までです。案外短いな。でも、一生分遊んだ気がします。

 PvEゲームである初代DIABLOでPvPをする「DUEL」というプレイスタイルで遊んでいました。メインキャラはローグ。この時代は弓専門クラスだったね。決して一流プレイヤーではなかったけれど、当時まだ珍しかった「プレイ日記」をWEB上に公開し、それなりのPVをいただいていました。今で言う「ストリーマー」みたいな位置付けだったのだと思います。

 2on2で試合をしている動画が残っていました。撮影は1999年8月11日、CHARA・DAHLIA組とBASSRANDY・CHICHIZO組の試合です。大会に向けての練習試合だったんじゃないかな。楽しい思い出です。

■ 参考リンク
→ もうひとつの「8mm」 『正常快楽殺人』 1997/04/23
DIABLO黎明期のPKプレイについてのエッセイです。ゲームの中とはいえ他人を殺すのにまだ抵抗のある時代であったことがわかります。
→ DIABLO Wiki 『DUEL』 2009-08-16
現存する、おそらく唯一のDUEL紹介ページ。プレイヤーリストに名前のある方々、何人かは知っている気がします。


UltimaOnline

 オープンワールドRPGのハシリ。日本鯖が追加されてすぐにDIABLOで友だちになった方々と一緒に入植したと記憶しています。

 当時はNTTのテレホーダイを利用して一晩中ネトゲしていました。23時に接続して朝8時までつなぎっ放し。睡眠時間2時間とかで平気で仕事行ってた。みんな若かったね。DIABLOでDUELする分には、相手も似たような環境だったので問題なかったのですが、UOに移籍したら、それでは全然足りませんでした。廃人率のめっちゃ高いゲームだったよね。トッププレイヤーに付いて行こうと思ったら、社会人は仕事辞めなきゃダメなレベル。狩場の独占とかもシステム的に許されていたので、人生賭けられない自分は細々と鎧屋を営むしかできませんでした。

 普通ならこれで終わりなのですが、公式鯖からの引退後、ご縁があってUO-GENESISというプライベート鯖でGM(ゲームマスター)を務めさせていただきました。当時の源氏名はGM-butterfly。GMと言っても権限はカウンセラーだったのでスタックしたプレイヤーを拾う仕事ばかりしていましたけどw; でも、設定を鯖に反映させる仕組みや運営側からの見え方、GM等の自分より上位の権限を持つプレイヤーを上手に使う方法など、いろいろ勉強させてもらいました。

 こちらはプレイヤーの方が描いてくださった漫画。とてもうれしかったのですが、お名前を失念してしまいました。たいへん申し訳ない。どうもありがとうございました。

■ 参考リンク
→ 葡萄の香る地 『UltimaOnlineって何?』
UO-GENESIS鯖でプレイしておられた方による紹介ページが残っています。


Diablo2

 DIABLOの続編。プレイした期間は2000年6月のβテストから2001年8月までです。

 世界中にファンがいるのを知ったうえで、敢えて言わせていただくと「当時だから許された凡作」に過ぎません。広いだけでMOB密度が低く気が付けば戦闘時間よりマラソンしてる時間の方が長いマップ。バリエーションと選択肢を広げた代わりに明示的なシナジーを失ったアイテムシステム。そして、クラス間のバランスが取れずに壊滅したPvP。自分は日記を書き続けるためにプレイを続けましたがとても辛かった。20年以上経ってわざわざそんなこと言ってしまうくらい嫌いなゲームでした。

 まぁ、それでも我慢してプレイしていた訳ですが、決定的な事件が2001年の6月に起こりました。拡張パック「Lord of Destruction」のロンチです。LoDはDiablo討伐後のAct5が追加されたり、新たなプレイヤークラスとしてアサシンとドルイドが追加されたりとゲーム自体を大きく進化させるものでしたが、自分的に絶対に許せない属性がMOBに付与されました。「Immune 〇〇」。無印DIABLOからD2に移った時に「これからは属性攻撃だ!」と炎だったり雷だったりを纏わせてダメージ量を盛らせたのがLoDになっていきなり「無効」ってんだから笑うしかありません。何、その迷走;

 結局、自分はLoDのロンチから1か月少々でDiablo2を去りました。何の未練もなかったな。リメイクされたD2Rもプレイしてみましたが、印象はまったく変わっていません。


Shadowbane

 一時期、ホリエモン氏のオン・ザ・エッジ / ライブドア社が代理店をしていたMMORPGです。自分がプレイしたのは2003年5月から2004年10月まで。本家のβテストから始めて日本語版に移り、その終焉を経て海外鯖で細々と余生を送りました。

 これね、ホントひどいゲームでしたw; いや、ゲーム自体は抜群に面白かった。育成も楽しいし生産も楽しいしMOBを狩るのもとっても楽しい。でも、一番のウリが「大規模集団戦」、鯖のカバー範囲が「香港を中心とした東アジア全域」、そして2003年が「反日感情がネットで急激に高まった年」であったことが重なって『日本対周辺国家連合』の代理戦争をやる羽目になったのです。日本人で戦争にフル参加するほどコアなプレイヤーは40人くらいでしたが、その日本人の所有する町に次々とBC(宣戦布告モニュメント)が撃ち込まれる。声を掛け合ってヘルプに行ってギルドの調整をし、さぁ防衛戦、と思ったら敵が200人くらい来るw; 戦力比5対1。味方の士気は高く、相当粘りましたが勝てる訳がありません。それが毎週です。後で聞いた話では、相手は香港・支那・韓国・台湾の連合軍で、「反日」を旗頭に各国のトップギルドが同盟を結んでいたらしいです。運営に「人種差別をゲーム内に持ち込ませるな」「日本人保護のために独自鯖を」と求めましたが救済されることはなく、日本人コミュニティはそのまま崩壊しました。そう言えば、Shadowbaneをプレイしていたって人に会ったことないな。辛い記憶だからみなさん封印してしまったのかも? そういう自分もネットで堀江氏のお姿を見かけるたびに当時の悔しさを思い出します。これからもきっと同じだと思います。

 こちらは長らく旅人の憩いの場であり続けた中立都市Nirvana最後の日。自分はこちらの鍛冶屋を切り盛りさせていただいていました。ずっと日本人の町であることを隠していましたが、最終的にバレちゃったみたいです。

■ 参考リンク
→ GAME Watch 『エッヂ、「Shadowbane 日本語版」を正式発表 国家間の戦争に焦点を当てたファンタジーMMORPG』2003年3月17日
→ GAME Watch 『ライブドア、MMORPG「Shadowbane」サービス中止』2004年6月1日


Everquest2

 プレイしたのは2004年10月から2012年9月まで。βテストに参加後、そのまま海外鯖でプレイしたソロ時代。DTM方面が忙しくなったので3年ほど中断し、その後、日本語鯖に復帰して『UNION8』に加入したレイド時代に二分されます。

 何人もキャラを作ったけど、やはり一番思い出深いのはアラサイFRY。Sebilis鯖に復帰した当時はまたソロで遊ぶつもりだったので「火力があって回復もできるクラスを」と考えた訳です。しかしこの判断が後々困ったことに。FRYってHealerとしては最弱なのです。レイドチーム『UNION8』に参加したは良いけど、どんなにがんばってHealしても自グループのタンクがタゲを取ると数秒しか維持できない; 使える回復スキルがインスタントHeal 3つとHoT 2つだけですから当然です。いや参ったね。サボっていた訳じゃありませんが、迷惑かけてるよなぁ、と申し訳なく思っていました。

 試しに一度だけ純DPSとして振舞ったことがあります。結果は与ダメージ量が24人中3位。Healerですけどね。FRYってのはそういうクラスなのです;

 余談ですが自分のハンドル名「anaut」、サブハンドル「unifla」はいずれもEQ2のキャラ作成時にランダム生成されたものを採用しました。2008年からずっと使い続けています。

■ 参考リンク
→ ノーラスな日々
UNION8のMT、Kozunさんのブログが残っていました。
→ うぃろーず漫画製作所 『BRITANNIAの勇者たち』 1998年~2001年
大好きだったノーラス生活漫画。当時のEQ~EQ2の世界で生活する様子がよくわかります。


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