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「得体の知れない箱で都市を過ごす」というプロジェクトのざっくりとした説明

祈りは、わたしたち人間が古来から続けてきた根源的な営みである。踊ってみたり、歌ってみたり、描いてみたり。他者からはなかなか見て取れない個人による祈りのかたちもあるけれども、誰かと共有できる、人から人へと受け渡されてきた祈りのかたちもある。たとえば神道や仏教といった宗教や、各地の民俗芸能、祭りだって祈りである。でも、科学の進展に伴い、次々と生み出される新しい商品に価格を付けて誰かに売り、それら商品に囲まれた生活を理想とする昨今の価値観の下、祈りは力を失いつつある。なぜなら、祈りはそうした科学や経済の助けにならないから。そもそも祈るためには、まずその対象を信じることが必要だけれども、「祈っても意味ない」とここでも科学的根拠や経済的価値から祈る理由を問われ、さらには祈りに嫌悪感すら抱かせてしまうのは、祈り自体がそうした現代の欲望を叶えるための手段ともされてきたから。オウム真理教や統一教会といった宗教団体に生じた問題もそうしたそもそも相容れない土壌に、祈りを植えたが故に深く根付き、そして消すことのできない禍根を残すことになったのではないだろうか。「混ぜるな、危険」みたいなことを科学実験のままに繰り返して増長してきたような気もする。

そんな社会に生きる我々は、祈りを捨ててどこへ向かうのか? まずもって祈るにはその対象を信じる必要があるが、科学や経済以外になにを信じることができるのか? そして、どんな祈りのかたちなら、いまのわたしたちに許されているのか? 新興宗教を立ち上げるつもりなんて毛頭なく、アートの客観性を用いて祈りの対象と距離を保ちながら、ハタからすればバカバカしく愚直に、いまに、そしてこれからにあり得る祈りのかたちを、みなさんと実践を通じて考えていけたらと思っています。

                               武田 力

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